鉱工業産物

陶器


三重県の陶器と言えば、万古焼と伊賀焼です。万古焼は、元文年間(一七三六〜四一)に桑名の商人沼波弄山が朝明郡小向村(現朝日町)で創業したのが始まりで、「古万古」と言われるものです。弄山の没後、一時中絶しましたが、天保二年(一八三一)に桑名で楽焼を製していた森有節が小向村で再興しました。それは、「古万古」に対して「有節万古」と言われます。

伊賀焼は阿拝郡丸柱村(現伊賀市)を中心に産した陶器で、当時の資料には「丸柱焼」と記すものもあります。起源は、信楽焼とも同一地帯で、鎌倉時代にもさかのぼる窯跡も発見されていますが、特に江戸時代に藤堂藩の領地となって一層発達しました。「藤堂伊賀」と言われる所以です。

写真は明治一一年(一八七八)九月、津公園で開催された県内物産博覧会へ有節が万古焼を出品した作品の図案です。森有節は自分の作品に「万古有節」の印を押したことは有名ですが、『明治十二年二月 博覧会書類』に綴じられた「竹川竹斎編述 万古陶来由記」には、その印にまつわるエピソードが記されています。それによれば、有節は弄山の孫(惟長)へ、自分の製した陶器に「万古」の印を押す許しもらいに何度も足を運びました。この時、単に「万古」印を押すのでは申し訳なく、また世間も贋作と勘違いするので、そばに「有節」の印を押すことを望んだと言います。これにより「万古」の文字を使用することが許されましたが、弄山が用いた印は与えられなかったということです。

このほか、当時の万古焼と伊賀焼に対する評価がわかる資料もあります。それは、明治一〇年に東京上野公園で開催された第一回内国勧業博覧会を見聞した三重県の博覧会委員がまとめたもので、両陶器の発展を期して改良すべき点を指摘しています。すなわち、万古焼は、西洋人を中心に大いに賞賛されているものの、わずかな陶工の手によって製造されているだけで、日用品ではないので、独特の味わいを保ちながら機械で大量に製造し、手ごろな値段の日用品を作るようにしてはどうかということです。また、伊賀焼は、反対にもっと時代の流行に敏感になり、早く作ることよりも、良質なものを追究して改良を加えれば、名声が高まると期待を込めています。このようなアドバイスが、その後の両陶器の製造にどのような影響を与えたのか、興味あるところです。

森有節の万古焼き作品図案
森有節の万古焼き作品図案
森有節の万古焼き作品図案
森有節の万古焼き作品図案
森有節の万古焼き作品図案
森有節の万古焼き作品図案
森有節の万古焼き作品図案
森有節の万古焼き作品図案

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