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水産物

鰹(カツオ)・鰤(ブリ)


南北に長く、伊勢湾や熊野灘に面した三重県は、古くから水産業が盛んでした。特に、伊勢湾沿岸では鰯などを獲る大地引網漁が中心で、明治一六年(一八八三)に東京上野公園で開催の水産博覧会に提出した『三重県水産図解』の「大地引網鰯漁之図」にも「安濃以北各郡村大体此漁法ナリ」と見られます。

それに対して、志摩地域から熊野灘沿岸にかけては、様々な漁法により各種の魚類が獲られたようです。中でも、鰹や鰤はこの地域の特産物で、『水産図解』に図や詳しい説明文が収録されており、「鰹釣リ之図」は代表的な図版です。鰹漁は「旧暦四月ヨリ十月頃迄」が漁期で、「春四月頃ニ漁スルモノハ初鰹ト称シ伊勢・伊賀地方ハ尤モ賞美シ、其価極メテ不廉ナリ」と見えます。

鰹漁の方法としては、一部には網漁も見られましたが、網で捕獲した鰹は新鮮度が落ちるため、専ら一本釣りによって鰹が獲られました。その鰹釣りの船は、図版にあるように外面に彩色を施したもので、「舟ニ彩色ヲナスモノハ鰹舟ト鯨舟ニ限レリ」との説明があります。そして、船には一〇〜一五人が乗り、鰹を釣る漁者や餌を管理する「生守」という役目などに分かれて、黒潮の流れに乗ってやって来る鰹の魚群を手際良く船上に釣り上げました。

さらに、『水産図解』には、釣り上げた鰹の加工方法なども詳しく記述されています。「鰹脯(鰹節)・塩蔵・酒盗」の三種類で、「塩蔵」は夏場の鰹の塩漬、「酒盗」は鰹内臓の塩辛で、「酒客嗜好」の品であることから、そう呼ばれたようです。なお、鰹節については、水産博覧会や内国勧業博覧会に三重県から多くの出品がなされており、これらの出品解説書にも製造方法や名古屋市場での販売状況などが記されていて当時の状況を知ることができます。

一方、鰤は『水産図解』では「海?魚(ブリ)」・「鰍魚(イナダ)」として掲げられ、度会郡や南北牟婁郡沿岸で捕獲が多かったと記述されています。漁法は網と釣りの二法がありますが、鰤の本格的な捕獲は、島勝浦(現紀北町)に明治三一年に鰤大敷網が敷設されてからでした。この大敷網は、魚群が通る道に垣根状の網を張り、それにぶつかった魚が知らないうちに網の中に入るという仕掛けで、宮崎県から導入した漁法でした。その漁獲成績は良好で、たちまち北牟婁郡周辺に多くの鰤大敷網が敷設され、九木浦(現尾鷲市)でも「鰤大敷網組合」を組織し、経営を始めました。写真は九木浦での鰤水揚げの様子ですが、明治四三年の皇太子嘉仁親王(のちの大正天皇)が三重県内を行啓されたときに発行された『三重県写真帖』に載せられています。

『三重県水産図解』に描かれた鰹釣船
『三重県水産図解』に描かれた鰹釣船
『三重県写真帖』に見る九木浦(現尾鷲市)の鰤漁
『三重県写真帖』に見る九木浦(現尾鷲市)の鰤漁

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