農産物


日本人にとって「農産物」と言えば、やはり米でしょう。弥生時代から人々は米づくりに懸命な努力をしてきました。水田の開発・栽培方法の工夫など、様々な手段で生産を高めようと必死に取り組みました。特に三重県では、江戸時代や明治時代の米づくりにとって注目すべきことがあります。それは、稲品種の交換と改良の舞台となったことです。

当時の人々は、「伊勢講」を村で組織をして、盛んに伊勢参宮を行い、参宮者は、神札とともに多くの土産を持って村に帰りました。その土産の一つが他地域で育てられた籾種でした。全国各地から持ち寄られた籾種が伊勢参宮を契機に交換され、幕末から明治期にかけては伊勢地方で次のような稲品種が改良され、全国に普及していったのです。
・関取米  
三重郡菰野村(現菰野町)の佐々木惣吉が発見した稲品種。初めは当時強かった力士の名を取って「雲龍米」と名付けたが、雲龍が負けたために、「関取米」と改称したと言われる。

・竹成米  
三重郡竹成村(現菰野町)の松岡直右衛門が改良した稲品種。「竹成米」または「倒十(こけじゅう)」と言われた。「倒十」は、肥料を施して倒れるほど実ると一反当たり一〇俵の収穫があることから名付けられたらしい。

・須賀一本 
河曲郡須賀村(現鈴鹿市)の戸田古小兵衛・作右衛門父子が発明・改良した品種で、嘉永六年(一八五三)の発見以降、試作を続けるうちに評判となり、「須賀一本」と名付けられたという。

・伊勢錦  
多気郡朝柄村(現多気町)の岡山友清(定七)が幕末期に改良・発見した稲品種で、明治・大正期に広く普及した。

これらの品種の籾種・摺米や稲株は、明治一四年(一八八一)に東京の上野公園で開催された第二回内国勧業博覧会に陳列されて全国に紹介がなされています。中でも、写真に掲げた「須賀一本」の出品解説書には、「産地并土質」・「蒔植并採収」・「培養并施糞」などの栽培方法が詳しく記述されています。さらに、同勧業博覧会には「旧忍(おし)米」(旧忍藩領であった北勢地域の産出米)や「五佐奈糯(もち)」(現多気町五佐奈地域で改良された稲品種)の出品も見え、明治二三年の第三回内国勧業博覧会では、「一志米」も出されています。

こうした明治期の三重の米づくりの状況は、県庁文書として残された博覧会や勧業関係資料をていねいに見ることによって明らかになります。

「須賀一本」の出品解説書
「須賀一本」の出品解説書
「一志米」の出品目録
「一志米」の出品目録

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