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近代医学の先駆者・橘南谿


 今年の春、4月1日、久居市に「ふるさと文学館」がオープンしました。太平洋戦争の空襲を免れた久居には、古い町並みが残されていますが、その町並みに一際目立つモダンな建物です。ゆったりとしたスペースの2階には、町の文学者の資料が展示されています。その中に橘南谿(なんけい)も紹介されています。
 南谿は、今からちょうど240年前の宝暦3年(1753)4月21日、久居藩士宮川保永の五男として生まれました。
 彼が19歳で医学を志して上洛したのは、くしくも蘭学者として有名な前野良沢や杉田玄白らが江戸の小塚原で解剖に立ち会い、オランダの医学書『ターヘル・アナトミア』の正確さに感動した年でした。幼いころより漢学を学んでいた南谿ですが、京都で古医学や洋学者の影響を受け、本格的に医学の勉強を始めました。
 31歳のとき、伏見で死刑囚の解剖を行い、その結果は『平次郎解剖図』として残されています。日本最初の解剖図誌を記したとされる山脇東洋が京都で初めて解剖したときから30年ほど経過していますが、医師が自ら執刀し、また画家が参加し、解剖の詳細な記録をしたのは、当時としては画期的なことでした。久居市の「ふるさと文学館」南谿のコーナーには、この解剖図のカラー写真も展示されています。
 南谿は、このころから医学修業のため、蘭学の盛んな長崎など西日本各地を旅行します。また、数年後には、秋田・青森をはじめ東日本をくまなく訪ね、『東遊記』・『西遊記(さいゆうき)』を著しました。医学研究のため、という名目ですが、天文学や地誌にも関心を示しており、読み物としても興味深い紀行文で、当時も多くの人に好まれ、ベストセラーとなったそうです。
 東日本の旅から帰京した年には、朝廷に召され、その翌年、官位も与えられています。功績を朝廷に認められたわけですが、その後、自宅が類焼したり、喘息(ぜんそく)に悩まされたりと、決して平穏な日々ではなかったようです。それでも、その間に多くの医学書を著しています。46歳のとき、日本で最初の解剖術に関する書物『解体運刀法』を記し、解剖は不浄のものではなく、医学の進歩のために重要であると訴えています。
 このように探求心に富み、行動力の旺盛な人物だった南谿ですが、健康には恵まれていなかったようで、文化 2年(1805)、病気のため京都で亡くなりました。53歳でした。

(平成5年5月 森本葉子)

橘南谿像(久居市図書館蔵)

橘南谿像(久居市図書館蔵)

参考文献

茅原 弘「橘南谿―其の解剖学における功績を中心として」『三重史学』創刊号 昭和34年
佐久間正圓『橘南谿』橘南谿伝記刊行会 昭和46年、同『改訂 橘南谿』昭和61年
岡田文雄『久居市史』上巻 昭和47年

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