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津の発展と築城の名手・藤堂高虎


 今からおよそ 380年前の慶長13年(1608)8月、藤堂高虎は伊予国今治から伊賀・伊勢国へ移ってきました。今日は、津の殿様として有名な戦国の武将・藤堂高虎についてお話ししましょう。
 高虎は、現在の滋賀県である近江国犬上郡藤堂村に生まれました。身長がおよそ190 センチあったといわれ、若い頃から武勇にすぐれており、政治面においても偉大な手腕の持ち主でした。豊臣秀吉に従って朝鮮で戦ったり、秀吉の死後は家康側について関ケ原では大いに活躍しました。
 徳川家康が、一外様大名にすぎなかった高虎を伊賀・伊勢の地へ置いたのも、そこが東海の政治・軍事に重要であったからで、大阪にいる豊臣氏のことを考えてのことでした。
 高虎が入封した当時の津の町は、関ケ原の戦の傷痕が残っており、500軒ほどの粗末な家が建っているだけでした。高虎は、その前の城主であった富田氏の居城を中心に本格的な都市計画を実施しました。城を中心に武士を住まわせ、町人たちを呼び集め、城下町をつくりあげていきました。このため、津の町は富田氏の頃に比べて三倍にもなったといわれています。それに、伊勢街道を城下市街を通るように変えました。のちに、「伊勢は津でもつ津は伊勢でもつ」といわれるほど、城下町として宿場町として大変なにぎわいをみせるほどに発展してゆきます。
 また、高虎は築城の名手として知られています。滋賀県の膳所城、江戸城伏見城、二条城などの修築を手がけたりもしています。家康の信任も篤く、家康の死に際しては枕元で奉仕し、日光廟の建設にも参加するなど、とても重く用いられていました。
 寛永7年(1630)10月、75歳で亡くなるまで幕府においても活躍し、津の町の発展にも大きな役割を果たしたのです。

(昭和61年8月 小島千津子)

藤堂高虎肖像<部分>(県立図書館蔵)

藤堂高虎肖像<部分>(県立図書館蔵)

津の町なみ

津の町なみ

参考文献

有造館『聿修録』文政元年
高山公三百年祭会『補註国訳聿修録』昭和5年
桜木二『高山公』伊勢新聞社活版部 大正2年

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