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世界にも目を向けた漢学者・斎藤拙堂


 梅の季節もあとわずかです。梅と言えば、近畿地方では月ケ瀬が有名ですが、全国に知られるようになったのは、江戸時代の終わりごろ、津藩の学者斎藤拙堂(せつどう)(正謙)が『月瀬記勝(つきがせきしょう)』という書物を著してからなのです。拙堂は、『伊勢国司記略』という歴史書も記すなど、単に生まれが伊勢国であるというだけでなく、地元で活躍した人物です。今日は、その斎藤拙堂について紹介しましょう。
 拙堂は、寛政9年(1797)に江戸の津藩邸で生まれました。幕府の学問所である昌平黌(しょうへいこう)で学問に励み、23歳のときに早くも藩主の教育者としての資格を得ました。そして、津藩の学校有造館(ゆうぞうかん)で講師を務めていましたが、文政7年(1824)に12歳の高猷(たかゆき)が津藩主になってからは、高猷の良き師となり、高猷も拙堂をとても信頼していたようです。有造館の総務である督学(とくがく)に就任すると、書籍を充実させる一方、武芸にも力を入れたり貴重な書籍の刊行を進めたりしたので、有造館と拙堂の名声は各地に広がり、他の藩の者まで有造館で学ぶようになりました。幕府の目にも止まり、将軍に謁見、幕府に仕えるように勧められました。しかし、拙堂は、高齢であることと、藩主高猷のそばを離れがたいことを理由に辞退し、津に戻りました。そうした拙堂を高猷自ら出迎え、禄高も増して、拙堂を失わずに済んだ喜びをあらわしたのです。高猷と拙堂の親しい交りは、拙堂が死ぬまで変わることはありませんでした。 なお、拙堂は漢学者ですが、広く蘭学などにも目を向けていました。特に中国がアヘン戦争でイギリスに負けたという情報に接してからは、世界情勢と日本の防備について勉強し、彼自身の論説も著しています。防備のために財政の苦しい津藩の実情を見て、自分の家禄を返上することを願い出るほどでした。拙堂が収集した世界地理書は60 種を超え、当時は入手しにくかったと思われるものもたくさん含まれています。外国を拒絶する攘夷派と、外国ととりあえず手を結ぼうとする和親派の対立が激しさを増す情勢の中で、拙堂は「日本を知るために、世界地理を研究する」という姿勢をくずさず、偏見を持たないよう、研究を続けました。幕末の志士たちのような派手さはありませんが、日本の将来を真剣に考えた拙堂の心は、決して志士たちに劣るものではありません。彼は、明治維新の直前、慶応元年(1865)に69歳でこの世を去り、津の四天王寺に葬られました。

(平成4年2月 鈴木えりも)

斎藤拙堂画像(写真 斎藤正和氏提供)

斎藤拙堂画像(写真 斎藤正和氏提供)

四天王寺の拙堂墓碑

四天王寺の拙堂墓碑

参考文献

鮎沢信太郎『鎖国時代の世界地理学』原書房 昭和17年
直井文子「斎藤拙堂年譜稿」『お茶の水女子大学人文科学紀要』第41巻 昭和63年
斎藤正和『斎藤拙堂伝』三重県良書出版会 平成5年

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