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社会福祉に尽くした画僧・月僊


 12月、歳末助け合い運動が行われています。江戸時代後期にも、伊勢で社会福祉に尽くした僧侶がいました。その人は、伊勢古市の寂照寺(じゃくしょうじ)の住職で画家でもある月僊上人(げつせんしょうにん)です。
 月僊は、寛保元年(1741)1月1日、尾張名古屋の味噌商人の家に生まれ、7歳のとき剃髪し、10代で江戸の増上寺に入りました。月僊は、生まれつき絵が好きで、修行の傍ら桜井雪館(せつかん)という、のちに雪舟12代を称していた画家について絵を学びました。増上寺の大僧正定月は、彼の絵の才能や修行ぶりを誉めて、自分の名の一字を取って「月僊」の号を与えました。その後、月僊は、京都の浄土宗総本山知恩院に修行することとなり、写生表現を重視した円山応挙の門に入り、与謝蕪村を尊敬し、中国の絵画をも学びました。
 安永3年(1774)、月僊34歳のとき、知恩院の大僧正に頼まれ、当時荒れ果てていた伊勢の栄松山寂照寺を立て直すため、そこの住職となりました。その年の夏、台風被害を受けた御師春木太夫の建物の襖と屏風絵を頼まれていた円山応挙が病気のため辞退し、代わりに月僊がそれを描き上げたのです。こうしたことから、月僊の名が世間に知れ渡り、彼の絵を求める人が多くなりました。
 月僊は、そうした求めに応じて絵を描いては報酬を集めたので、批判する人もいました。しかし、彼は報酬を一銭も自分のものとせず、すべて寂照寺の再興と貧しい人々の救済などの社会福祉事業のために使いました。彼が山門・本堂・庫裏・経蔵を絵で得たお金で建立したのは、寛政12年(1800)から享和3年(1803)にかけてのことでした。文化元年(1804)から5年ごろには、月僊は1,500両を山田奉行に託し、その利子で近郷の貧しい人々を救助するようにしました。人々は、その恩徳を讃えて、この基金を「月僊金」と呼びました。さらに、彼は橋を架けることや道路の改修にも多くの資金を出したと伝えられています。
 月僊は、山水画や人物画を得意とし、数多くの作品を描きました。彼は、師事した先輩画家たちの画風や中国の絵画など様々な絵画表現を研究して、自分自身の表現を形成していったようです。また、司馬江漢(こうかん)が著した『西遊日記』中の逸話では、長崎旅行の途中伊勢を訪れた江漢がはじめて月僊と対面したとき、月僊は洋風画にも心ひかれ、酒や肴を出し、「蘭画」の制作方法を聞こうとしています。
 多くの絵を描き、社会福祉事業に尽くした月僊も、病には勝てず、文化6年(1809)1月、寂照寺で亡くなりました。

(平成6年12月 海津裕子)

月僊赤壁図(県立美術館提供)

月僊赤壁図(県立美術館提供)

参考文献

野村可通『伊勢古市考』三重県郷土資料刊行会 昭和46年
中川ただもと「江漢『西遊日記』と寂照寺の月僊」『伊勢古市の文学と歴史』古川書店 昭和56年

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