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伊勢と関わり深い奇想の画家・曽我蕭白


 江戸時代の中ごろ、政治や経済が次第に安定し、人々の生活にもゆとりが生まれてくるにつれ、江戸や京都といった都市を中心にして学問や芸術など様々な文化が花開いていきました。そうした時代の中にあって、強烈な芸術性を発揮してひときわ異彩を放ち、また、伊勢地方とも深い関わりを持つ曽我蕭白(しょうはく)という画家がおりました。今日は、その曽我蕭白についてお話したいと思います。
 蕭白は、今から約260年前の享保15年(1730)、京都の商家に生まれたと言われています。伊勢生まれという説もありますが、これは彼が何度か伊勢地方を訪れたことから出た臆説か、あるいは実際伊勢に地縁があったのか、そのあたりはよくわかりません。
 彼は、若いころから画家を志したようで、京都在住の高田敬輔(けいほ)という人物から絵を学び、やがて彼独自の作風を確立していきます。
 蕭白の作品について語るとき、「奇想天外」「グロテスク」「異端」といった言葉がよく用いられます。実際、彼の作風は当時の人々が好んだ「いき」「酒脱(しゃだつ)」といった感覚とはあまりにもかけ離れたものでした。
 また、蕭白は、その作品と同じく実生活の上でもかなり個性的で、多くの奇行や逸話を残しています。彼は、少なくとも二度は伊勢地方を訪れており、まとまった数の作品が県下に伝わっていますが、逸話も豊富で、空腹のあまり道端に行き倒れていたのを通り掛かった人に家につれていかれ、親切にしてもらったのが縁で絵を描いたり、ある寺に一年以上滞在していながら何一つ描こうとせず、ある日突然、本堂の壁に絵を描いて姿を消したり、小僧の顔を使ってためしがきをしたり、といったことがおもしろおかしく伝えられています。
 県下に残る代表的な作品としては、厄除(やくよ)けで有名な松阪継松寺の「雪山(せっせん)童子図」、最近重要文化財に指定された松阪朝田寺の「唐獅子図」等があり、また、明和町斎宮の旧家には襖絵が44面も伝来しており、一か所に遺された蕭白の絵としては最大級のもので注目されます。
 蕭白は、天明元年(1781)、数え年52歳で亡くなります。彼の絵は幕末から明治の初めにかけて一時人気が出たようで、ニセモノが横行したのもこの時期です。その後はほとんど忘れられたような状態となり、今では彼の力作・傑作の半分以上がフェノロサなどの手によって国外へ持ち出され、現在ボストン美術館に収蔵されているのは少々残念なことです。

(平成5年11月 瀧川和也)

杉戸絵獏図(朝田寺所蔵、写真県立美術館提供)

杉戸絵獏図(朝田寺所蔵、写真県立美術館提供)

杉戸絵獏図(朝田寺所蔵、写真県立美術館提供)

杉戸絵獏図(朝田寺所蔵、写真県立美術館提供)

参考文献

『曾我蕭白』三重県立美術館 昭和62年
『三重の美術風土を探るII第二部 その後の蕭白と周辺』 三重県立美術館 平成4年

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