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多くの民衆伊勢へ「おかげまいり」


 今日は、伊勢神宮と密接な関係があり、江戸時代の民衆のエネルギー爆発の一つとされる「おかげまいり」に ついてお話しましょう。
 江戸時代、伊勢まいりは全時代を通じて流行しましたが、中でも、ある特定の年に参宮が熱狂的に行われ、多くの民衆が伊勢へと押し寄せました。慶安3年(1650)・宝永2年(1705)・明和8年(1771)・文政13年(1830)の各年が、その代表的な年でした。ほぼ60年周期で起こっていますが、その原因ははっきりしません。
 明和8年の群参のときから、広く「おかげまいり」と言われるようになり、それ以前の群参については「おかげまいり」と呼ばずに、当時は「ぬけまいり」と呼んでいました。皇太神宮のお札が降ったとか、多くの人たちの伊勢まいりが始まったとかの噂が立つと、子は親に断りなく、妻も夫の許可なく、奉公人も主人に無断で伊勢参宮に出掛けました。その旅姿は、白衣に菅笠で一本の杓を持ったりもしました。また、彼らは多く集団を作って旅し、のぼりや万灯を押し立て、「おかげでさ、するりとな、ぬけたとさ」と歌い踊り歩きました。日頃の生活を離れて自由に旅ができ、十分な旅行費用を用意しなくても、道筋の家々が食べ物や宿泊の場所を与えてくれました。それを神のおかげとし、妨げると天罰が下るとされました。
 山田三方会合所の記録や本居宣長の『玉勝間』によれば、宝永2年の群参は50日間で362万人に達し、京都から起こった群参の波は、東は江戸、西は現在の広島県や徳島県にまで及ぶほどでした。次の明和8年の「おかげまいり」の総人数は、不明確ですが、宮川の渡し人数から見ても200万人以上に達し、東北地方を除く全国に及んだと言われています。さらに、文政13年の場合は、約500万人が伊勢へ伊勢へと押し寄せています。
 また、江戸時代の伊勢参宮の盛行は、単に民衆が自由を求めただけでなく、諸国の人たちの出会いと交流により、稲の品種交換・伊勢歌舞伎の振興等、様々な形で全国の文化等に影響を及ぼしていたようです。

(平成4年3月 山口千代己)

「おかげまいり」錦絵 樋田清砂氏蔵

「おかげまいり」錦絵 樋田清砂氏蔵

参考文献

藤谷俊雄『「おかげまいり」と「ええじゃないか」』岩波新書 昭和43年
西垣晴次『お伊勢まいり』岩波新書 昭和58年
相蘇一弘「おかげ参りの実態に関する諸問題について」 伊勢信仰・近世』民衆宗教史叢書 第13巻雄山閣 出版 昭和59年

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