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日本紙幣の元祖「山田羽書」


 「山田羽書」を御存知でしょうか。羽書とは羽根の羽を書くと書きますが、これは伊勢の山田で発行された紙幣で、日本の紙幣の元祖と言われています。今日は、この山田羽書についてお話しましょう。
 当時、関西地域では大型の貨幣が使われていましたが、それは嵩む上に重く、不便でした。そこで、17世紀のはじめごろ、伊勢山田の商人たちは貨幣の代わりに金額を紙に書き、預かり手形として発行するようになりました。これが山田羽書の始まりと言われています。
 当初は地域的に何人かで組を作ってその中で流通させていましたが、やがて、それは山田全体へと広がりました。寛保2年(1742)には発行者は404人になり、銀一匁札に交換できる羽書だけで130万枚も出回りました。また、羽書は山田のほか、松坂・射和・丹生・白子・一身田等でも発行されるようになり、県域外においても、山田羽書がもととなって全国で流通する商人札へと発展しました。さらに、藩が独自に発行する紙幣、すなわち藩札の起源ともなりました。宝永4年(1707)、幕府は正貨流通促進を目的に藩札の使用を一時禁止しましたが、山田羽書だけは特別に許可され、その後幕末まで続きました。
 山田羽書は商人の個人的発行で始まりましたが、その管理は早くから山田の自治組織である三方会合が行い、寛政2年(1790)以降は、幕府の出先機関である山田奉行のもとで、引き続き三方会合等がその業務につきました。こうして、山田羽書は私札でありながら公的性格を持っていきました。そのため、明治維新後、度会府札を発行する際も、山田羽書の版木を使ったものでした。しかし、明治4年(1871)にはすべての藩札処分により政府の全国統一の新紙幣と交換され、山田羽書は使われなくなりました。
 このように、山田羽書は日本初の紙幣であり、江戸時代を通じて発行され、全国の紙幣経済の基礎となったのですが、そこには山田の自治精神や、地域の人々の連帯意識がうかがえます。

(平成7年3月 藤岡千帆)

神戸藩札

神戸藩札

津藩札

津藩札

度会府札

度会府札

山田羽書

山田羽書

参考文献

『宇治山田市史』上巻 昭和4年
日本銀行調査局『山田羽書の事歴』通貨研究資料(20)  昭和45年

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