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万古焼の発展に多くの努力


 毎年5月には、四日市市陶栄町の万古神社で「万古まつり」が開催されます。神社の近辺に万古焼の露店がズラリと並び、多数の人々でにぎわいます。
 ところで、全国各地のやきものは、瀬戸物・常滑焼・伊万里焼・伊賀焼など、ほとんど生産地の名が付けられていますが、四日市の万古焼は生産地の名が付いていません。珍しい存在です。これは、万古焼を始めた沼波弄山(ぬなみろうざん)が、「万古」あるいは「万古不易」、すなわち「永久に変わらない」という言葉の刻印をやきものに押していたからです。
 万古焼の祖・沼波弄山は、今から274年前の享保3年(1718)、桑名の商家に生まれ、幼いころから茶道にも親しんでいました。そして、20歳のころ現在の三重郡朝日町小向に自らやきものの窯を築き、陶芸を始めました。最初は趣味の範囲でのやきものでしたが、異国風の器形や赤絵のやきものが弄山の特色で、次第に評判になり、江戸にも窯を築き、本格的に陶器商売を行うようになったのです。このころの万古焼は「古万古」、江戸の万古焼は「江戸万古」と呼ばれていますが、安永6年(1777)に、彼が六〇歳で死亡すると、小向や江戸の窯も閉ざされてしまい、一時万古焼は途絶えてしまうわけです。
 その後、約50年ほど経って、桑名の骨董屋の森 有節(ゆうせつ)、千秋兄弟が万古焼を復興しようと、万古焼発祥の地・小向に窯を築き、やきものを生産しました。この時期の万古焼は、「有節万古」と呼ばれ、弄山のものと作風も異なり、特に木の型を使って成形したため大量生産が可能となり、大いに繁盛しました。
 こうした万古焼の復興に刺激され、伊勢国の各地で万古焼の生産が行われます。桑名万古・射和万古やその系統を引くものに阿漕焼などがありますが、四日市でも幕末から明治時代初期にかけて、山中忠左衛門や堀友直が万古焼の生産を開始し、河村又助等の努力によって海外にまで万古焼の販路が拡大されました。こうして、今につながる四日市の万古焼の生産基盤が確立したのです。
 なお、今年の「万古まつり」は、5月9日・10日の土曜・日曜です。みなさん、一度お出掛けになってみてはいかがですか。  

(平成4年4月 吉村利男)

森有節の万古焼出品(『第二回内国博覧会解説』県庁蔵)

森有節の万古焼出品(『第二回内国博覧会解説』県庁蔵)

万古神社(平成7年10月撮影)

万古神社(平成7年10月撮影)

参考文献

満岡忠成『四日市萬古焼通史』萬古焼陶磁器振興会 昭和54年
水谷英三「萬古焼の歴史と技法(1) 〜(12)」セラミックス』15巻 昭和55年

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