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信長の伊勢攻略と長島一向一揆


 今日は、織田信長の伊勢攻略について、主に長島一向一揆への攻撃を中心に、お話ししましょう。
 信長は京へ上る前年の永禄10年(1567)から北勢に侵入し、北勢四八家といわれた諸侍たちを降伏させ、翌11年には神戸・関・長野の三氏を勢力下に収めました。続いて永禄12年8月には、南勢の北畠氏を滅ぼしました。
 こうして、信長の勢力は、ほぼ伊勢全土に及んでいきましたが、なおも信長に反抗していたのが、木曽・長良・揖斐の三川に囲まれたデルタ地帯にある長島です。ここには、大坂の石山本願寺の末寺、願証寺(がんしょうじ)があり、東海地方の一向宗の中心として、その門徒は、およそ10万人といわれるほどで、長島の城主伊藤重晴を追い出し、一向宗門徒による自治を行っていました。
 この当時、石山本願寺は信長の天下統一の動きに反抗し、元亀元年(1570 9月から、信長との戦いを始め、全国の一向宗門徒に対し、信長と戦うようにと檄を飛ばしました。長島願証寺もこの呼びかけに応じ、まず尾張の小木江(おぎえ)城を攻め、信長の弟の信興(のぶおき)を切腹させました。
 信長は元亀2年5月、第1回目の長島攻撃を行いましたが、長島方がゲリラ戦法をとったため、信長軍は混乱して敗北しました。天正元年(1573)9月、信長は再び長島攻撃を行い、長島側に味方した北勢の土豪を降伏させましたが、門徒のゲリラ部隊に襲われ、またも敗走しました。
 翌天正2年7月、信長は三度目の長島攻撃を開始し、志摩の九鬼水軍を中心に数百艘の軍船を用いるなど、これまでにない大軍を動員しました。この軍船の威力は大きく、長島方の受けた被害は甚大でした。長島方では食糧不足から餓死者が続出、二つの砦は落ち、風雨に紛れて砦から脱出した男女千人余りが信長軍に斬り殺されました。三カ月にわたる籠城戦が続きましたが、9月29日、遂に長島方は降伏し、門徒衆は船で逃げ出しました。しかし、待ちかまえていた信長軍に鉄砲で打たれ、多くは川の中へ落とされ、川の中は死者の血で赤く染まったということです。また、砦に残っていた男女2万人余りは、周囲に柵を設けて閉じ込められ、四方から火を放たれ焼き殺されてしまいました。現在の長島町の人口の約二倍の人々が殺されたことになりますこうして、長島一向一揆は壊滅しました。
 長島温泉で知られるこの長島の地にも、このような痛ましい出来事があったのでした。

(昭和63年9月 海津裕子)

一揆の拠点を取り囲む安宅船

一揆の拠点を取り囲む安宅船

参考文献

桑田忠親『改訂信長公記』新人物往来社 昭和40年
伊藤重信『長島町誌 上巻』長島町教育委員会 昭和49年

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