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上野城と分部氏の活躍、そして転封


 秋の気配があちらこちらに感じられる今日このごろ、公園に出掛ける人も多くなります。今日は、安芸郡河芸町の本城山青少年公園となっている上野城最後の城主であった分部氏について、お話しようと思います。
 河芸町役場の北側、国道23号と平行して一本西側の道は旧参宮街道で、町並みがよく残っていますが、上野と呼ばれるこの集落の西の高台に、本城山青少年公園、すなわち上野城跡があります。この上野城は織田信包(のぶかね)や分部氏の居城であり、織田信長・豊臣秀吉・徳川家康の三代にわたる激動の時代をながめてきました。
 分部氏は、元来中勢の有力国人(こくじん)であった長野氏の一族で、安濃郡の分部や神戸(いずれも現津市)を本拠に活躍していましたが、織田信長の伊勢進攻のとき、信長の弟である信包に仕えました。信包が津の仮城としたのが上野城で、そのとき奄芸郡中山(現津市)の城にいた分部光嘉(みつよし)が津城をはじめ本格的な築城の総指揮をしたと言われています。
 文禄3年(1594)、信包が豊臣秀吉の命により近江に移されると、光嘉は信包から離れ、翌文禄4年に秀吉から飯野・度会・一志郡で3,000石を給され独立します。その後、慶長2年(1597)に奄芸郡で1,280 石、同3年に一志・度会郡で5,780石を加増され、都合10,000石の知行高となります。
 そして、慶長五年の関ケ原の戦いでは徳川家康の軍に参加し、津城の篭城戦では名を馳せました。慶長六年、改めて家康から計20,000石が給せられ、知行地も上野村をはじめ奄芸郡内に再配置され、上野城を中心とした支配体制が確立します。しかし、この年一一月、光嘉は前年の篭城戦での傷の悪化のため死去し、分部家は養子光信(みつのぶ)の時代となります。
 光嘉のあとを受けた光信は、弱年ながら駿府城に詰めて奉公したり、大坂冬夏の両陣も戦い、さらに二条城・大坂城等の普請にも参画し活躍しました。しかし、元和5年(1619)には、紀州藩成立の余波を受けて、光信は近江国大溝(現滋賀県高島町)に転封となり、上野城は廃城になってしまいました。
 大溝に移ってからの分部氏は、明治維新までその地を動きませんでした。伊勢国の上野への郷愁の念を込め、上野にあった菩提寺と同じ円光寺という寺を建立して新しい土地での菩提寺としました。また、分部家に伝わった文書類は、旧家臣の血を引く分部宝物保存会の方々により大切に保存され、現在は高島町歴史民俗資料館に寄託されています。

(平成4年8月 川合健之)

本城山青少年公園・上野城跡(平成7年12月撮影)

本城山青少年公園・上野城跡(平成7年12月撮影)

参考文献

『高島町史料所在目録』高島町教育委員会 昭和55年
『河芸町郷土史』昭和53年
『高島町史』昭和58年

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