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検地の実施、三重の場合


 今日は、今から400年ほど前に豊臣秀吉が行った、いわゆる太閤検地についてお話しましょう。
 織田信長のあとを受けて全国統一を果たした秀吉は、有名な「刀狩」と「検地」を実施しますが、特に力を入れたのは検地であり、食事中でも、地方から検地帳が届くと、すぐさま箸を置き、検地帳に見入ったとも言われています。その土地の経済力がつかめ、それが全国支配に大いに役立つと考えたからでしょう。
 伊勢国の検地は、文禄3年(1594)7月から9月に一斉に実施されます。文禄年間には、畿内・近国を中心として、全国各地で検地が行われており、伊勢国の検地もその一環でした。秀吉は、伊勢国に七名の検地奉行を任命し、検地についての訓令とも言うべき「検地条目」を与えます。
 そこには、次のようなことが書かれています。まず、田畠や屋敷を六尺三寸の棹(さお)で測ること、五間・六〇間の広さを一段とすること、田畠を上・中・下・下々の四等級に分け、それに応じて収穫高を定めること、土地の耕作者を明らかにすることなどがあげられていますが、中でも注目すべきことは不公平な取扱いをしない、賄賂を取らない、などの項目まであることです。検地奉行は、これらの条目をよく守り、間違いなく実施するため、秀吉に対して誓約書を提出したことも史料からわかります。一方、もし検地に反抗する者がいたら皆殺しにせよ、という奉行あての文書も知られており、秀吉の検地に対する意気込みがうかがえます。
 伊勢国と同じころ、志摩国でも検地が行われていますが、奉行や実施方法等はまだわかっていません。また、その四年前には紀伊国で検地が実施されようとしました。ところが、熊野川支流の北山川に沿う村々は、南朝との特別な関係から長い間無年貢の地であり、年貢取立てのための検地には必死に抵抗しました。現在の熊野市五郷町の山城に2,500人ほどが立て篭もったので、約3,500人に及ぶ豊臣方の兵の動員によって攻め落とされたと伝えられています。
 さらに、検地の実施に当たっては、伊勢神宮の扱いも大きな問題でした。戦国末期には、神宮の持っていた荘園の大部分を土豪に奪われていたため、神宮は領地復活の絶好のチャンスとばかり、運動を繰り返します。そして、神宮鎮座の地である宮川以東の地域については、検地から除外してもらうことに成功し、神宮領として公認されました。このようにして、近世社会の基礎が固められていったのです。

(平成2年7月 松浦 栄)

伊勢国文禄検地条目写(渡辺覚氏蔵)

伊勢国文禄検地条目写(渡辺覚氏蔵)

参考文献

酒井 一「三重県近世史研究の諸問題(1) −−太閤検地を中心に」『三重県史研究』第7号 平成3年
『三重県史』資料編 近世1 平成5年

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