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伊勢に愛着あった歌人・西行


  ねがわくば 花の下にて 春死なん そのきさらぎの もち月のころ
 この歌で知られる平安時代の歌人西行は、旅の歌人として有名で、その足跡は東は陸奥国、西は四国・九州にまで至り、ほとんど全国を歩いたといってもよいくらいです。鎌倉時代に作られた『新古今和歌集』には西行の歌が94首入っており、個人の歌としては一番多く取り上げられています。多くの優れた歌を残したこの西行が、伊勢に関する歌を数多く詠み、晩年を伊勢の地で過ごしたことは御存知でしょうか。
 西行は、本名を佐藤義清(のりきよ)といい、元永元年(1118)、代々武勇の誉ある家に生まれました。鳥羽上皇に北面の武士として仕え、武芸・和歌ともに優れていましたが、23歳のとき出家し、西行又は円位と名乗ることとなります。出家の動機としては、戦乱の世に嫌気がさしたのではないかと言われていますが、出家して仏道修行とともに歌を詠み、全国を旅する生活へと入っていったのです。西行の歌集である「山家集」には、出家後、鈴鹿の山を越え伊勢に行くときに詠んだ歌があり、伊勢に住むまでにも何度か足を運んでいるのではないかと思われます。
 そして、『千載和歌集』の西行の歌の詞書に「いせのくに二見浦の山寺に侍りけるに」、鴨長明の『伊勢記』に「西行法師すみ侍ける安養山といふところ」と記され、西行は60歳代の数年間を二見の安養山で過ごしたとされています。これまでも「西行谷」と呼ばれる箇所があり、明治期に記念碑を建てたりしてきました。さらに、最近の安養寺跡の発掘調査では、西行の草庵の可能性のある遺構や遺物が発見されています。
 なお、伊勢にいた間、西行は伊勢神宮の神官たちと歌のやりとりをしたり、歌を教えたりしていたようで、現在残されている歌や弟子であった神官の書き残した書物からうかがい知ることができます。また、西行自ら選んだ歌72首を伊勢神宮に奉納したりもしています。出家後まもなくに伊勢を訪れ、晩年には伊勢の地に庵を結んだことは、僧侶であり、歌人であった西行にとって伊勢は愛着のある所だったのではないでしょうか。
 自然を愛し、特に月と花に関する歌を多く詠んだことから月と花の歌人とも言われた西行は、晩年を伊勢で過ごしたのち、東大寺再建のために奔走し、文治六年(1190)、歌で詠んだ願いどおりに釈迦が亡くなったとされる如月の望月、すなわち2月15日の翌16日に河内国の物静かな山里のお寺で、73歳の生涯を閉じたのです。

(平成6年2月 茅原廉子)

安養寺跡の発掘調査(二見町教育委員会提供)

安養寺跡の発掘調査(二見町教育委員会提供)

参考文献

中川ただもと『伊勢の風土と文学・五 三重の西行法師遺跡考』昭和57年
『二見町史』 昭和63年
『三重県埋蔵文化財センター年報4(平成四年度)』 平成5年3月

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