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志摩町和具の観音堂に伝わる仏像


 まもなく梅雨あけ、海や山にと本格的な夏のレジャーシーズンが始まります。今日は、特に夏にぎわう志摩半島の先端部、志摩町和具の観音堂に伝わる仏像についてお話したいと思います。
 和具観音堂は、いつ誰によって開かれたのかは不明ですが、平安時代の仏像が比較的まとまって残されており、全部で8体が伝来しています。
 中でも、まず最初に取り上げる仏像は、重要文化財の銅造如来坐像です。像の高さわずか17センチほどの大きさですが、平安時代には珍しいブロンズ製、つまり銅に微量の錫を加えた合金でできており、しかも優秀な作品です。衣を着て坐禅をするように坐る、いわゆる結跏趺坐(けっかふざ)と呼ばれる姿です。左手は膝の上に置いて5本の指を軽く曲げていますが、右手は臂から先の部分を欠いているため、釈迦や薬師といった名前が特定できません。このため、単に如来坐像と呼ぶわけです。蝋型という技法を用いて鋳造されており、像の底の部分に溶けたブロンズを流した痕跡が確認でき、頭の部分を下にして鋳造したものと考えられます。また、頭頂部には鉄心を抜いた穴も確認できます。制作された年代は、おそらく10世紀、それも割合早いころと推定されます。
 本尊の11面観音立像は、三重県の指定文化財で、173センチの大きさです。頭と体のほとんどをヒノキの一材で造り出しており、一般にこうした技法を「一木造(いちぼくづくり)」と呼びます。太い腕やがっしりとした下半身など全体的に重厚な造形で、おそらく地元で制作されたもののようです。
 同じく三重県指定文化財の仏頭は、その名のとおり仏像の頭部、しかも前半分だけが、ちょうどお面のように残っています。それだけで1メートルほどの大きさですから、もとの仏像はかなりの大きさであったことがうかがわれます。和具城主青山豊前が朝鮮から持ち帰ったとの伝承がありますが、作風は明らかに我が国のもので、 11、2世紀ごろに制作されたものと思われます。
 このほか、本尊の向かって左には薬師如来坐像が安置され、また、古くなって表面が傷んでいる四体の平安仏も伝わっています。
 これらの仏像が、どういった経緯で観音堂に祀られるようになったのかは明らかではありませんが、志摩地方の仏教美術を考える上で、和具観音堂の仏像は大変注目されます。

(平成6年6月 瀧川和也)

銅造如来坐像(像高17cm)

銅造如来坐像(像高17cm)

参考文献

倉田文作「平安時代の金銅仏」『ミュージアム』215号 昭和四四年
松山鉄夫ほか「三重県の仏像(一)・(二)」『三重大学教育学部研究紀要』第41・42巻(人文・社会科学 ) 平成2・3年

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