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正倉院に残る古代伊賀国の古文書


 本格的な秋になり、各地で文化的な催しが開かれています。奈良の国立博物館では毎年恒例になっている「正倉院展」が開催され、連日熱心なファンが長蛇の列をなして見学に訪れているようです。今回で46回目を数えるこの特別展には、初公開のものを含めて74件の宝物が公開されています。
 御承知のとおり、正倉院の宝物は、奈良時代に東大寺の大仏を造って有名な聖武天皇の遺愛の品を皇后の光明皇后が東大寺に納めたものを中心に、仏教関係の工芸品・調度品・楽器・武器に至るまで、様々なものが約1,200 年前の色・形そのままの姿で伝えられたもので、地下の遺跡などから発掘されたものではないという点、世界にも例のないものです。また、これらの品々のほかに、東大寺の造営や奈良時代の政治や社会状況を知ることができるたくさんの古文書も残されており、古代史研究にとっては非常に重要な資料となっています。これらの古文書は「正倉院文書」と呼ばれ、日本に現存する奈良時代の文書の大半を占めています。
 さて、今回の正倉院展にも、「正倉院文書」の一部が公開されています。今日紹介するのは、その中の「東南院文書」の「伊賀国司解(いがのこくしげ)」です。これは、天平神護2年(766)12月5日付けで、伊賀の国司が、8世紀当時、伊賀の国内にあった東大寺の領地を確認し報告した内容です。文書には「阿拝郡(あへのこおり)」(現在の伊賀北部・伊賀町・阿山町・島ヶ原村付近)や「伊賀郡」(現上野市の大部分)などの地名が記され、さらに、その郡ごとに「何々条」と所在地別に郡内の田や山野などの面積がこと細かに記録されています。この記録を細かく検討することによって、奈良時代の土地の区画制度である「条里制」の仕組みをもうかがい知ることができます。
 奈良時代に、4,000町歩の開墾田の保有を認められた東大寺は、天平勝宝元年(749)から各地で山野の地の占定(せんてい)を行い、大和国をはじめとする22か国にわたり、約4,000町歩の荘園を獲得していきます。伊賀国もその対象の地となり、阿拝郡だけでもその約70パーセントが東大寺の領地で占められていました。この「伊賀国司解」から、その開発の状況を知ることができます。
 のちの天徳2年(958)に橘元実(もとざね)が玉滝の地(現在の阿山町玉滝付近)を東大寺に寄進して、翌年正式に荘園として公認されますが、この正倉院の記録はそれ以前の状況を記しているわけです。
 正倉院に伝わるこれらの宝物や古文書は、年1回だけしか見ることはできません。是非一度、1,200年前の歴史を垣間見るこの特別展にお出掛けになってみてはいかがですか。「正倉院展」は11月7日まで開催中です。

(平成6年10月 阪本正彦)

東南院文書「伊賀国司解」(『第46回正倉院展目録』)

東南院文書「伊賀国司解」(『第46回正倉院展目録』)

参考文献

早瀬保太郎『伊賀史概説』上巻 昭和48年
奈良国立博物館『第46回正倉院展目録』 平成6年

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