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古代の三重から多くの「采女」


 現在、四日市市に采女(うねめ)町という地名があります。ここは古くから「采女郷」という名で知られていますが、「采女」とは、古代、朝廷に仕え主に天皇の食膳の奉仕をした下級の女官のことです。その多くは地方豪族の娘たちでした。地方豪族は、朝廷への服従の証拠として自分の娘を采女として、差し出したのです。
 采女となるには、『日本書紀』や『養老律令』によりますと、「郡の少領以上の姉妹及び子女の形容端正(かほきらきら)しき者を貢(たてまつ)れ」とあり、『古事記』や『日本書紀』に伊勢の国の采女の話がしばしば出てくるところを見ますと、古代の三重県は美女の多い土地柄であったと言えるかもしれません。
 今日は、三重県域から出た采女について、いくつかお話します。
 『古事記』の伝承によりますと、雄略天皇のとき、「伊勢の国の三重の采女」が、宴会で天皇に捧げる盃に木の葉が入っているのに気付かず、酒を注いでしまい、天皇の怒りに触れて殺されそうになりました。そこで、采女は必死で天皇を讃え、繁栄を祈った歌を即興で詠み、その歌が大層素晴らしい出来であったので天皇が感心し、命拾いをしたという記事があります。采女の条件としては、容姿端麗だけではなく才媛であることも必要だったのかもしれません。
 なお、「三重郡の采女」ということで、この采女は現在四日市市の「采女郷」の出身ではないかという人もあります。
 また、伊勢国飯高郡の采女・ 飯高宿禰諸高(いいたかのすくねもろこ)のように、従3位という高い位を与えられた采女もいます。『続日本紀』には諸高のことを、「性格は、無欲でつつしみ深く、行いは潔白である」と誉め称えています。
 さらに、伊勢の豪族大鹿(おおか)氏の娘莵名子(うなこ)は、采女でありながら敏達天皇の夫人になりました。
 このほかにも、西暦672年の壬申の乱で大海人皇子(おおあまのおうじ)、のちの天武天皇と天皇の位を争って敗れた大友皇子(おおとものおうじ)の生母・ 伊賀采女宅子娘(いがのうねめやかこのいらつめ)は、現在の大山田村鳳凰寺の出身であると言われています。
 こうした采女も、律令制の全盛期には郡単位で1人ずつ朝廷に召されたようですが、次第に国単位となり、9 世紀になると地方から采女は召し出されなくなりました。

(平成6年9月 多上幸子)

三重郡の采女

三重郡の采女

参考文献

大西源一『三重県郷土史』三重県警察部 昭和14年
中貞夫『名張市史』名張市役所 昭和49年

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