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戊辰戦争、津藩と桑名藩


 慶応3年(1867)に成立した、薩摩・長州藩を中心とする新政府は、幕府の最後の将軍である徳川慶喜(よしのぶ)の政治的な力を完全になくそうとして、翌年1月、京都の南にある鳥羽・伏見で戦いがおこり戊辰戦争が始まりました。この年が干支で戊辰(つちのえたつ)の年に当たったため、戊辰戦争と名付けたのです。
 このような幕府軍と新政府軍のどちらに味方するかということは、当時財政の苦しくなっていた各藩にとっては、藩の運命が決まる大問題となりました。三重県内にあったそれぞれの藩でも、さまざまな動きが見られます。
 例えば、津藩では初め幕府側につくことを主張する者もいましたが、朝廷の命によって政府側につき、大阪にいた幕府軍が攻めてきた時に、京都の山崎という重要な場所を護り、政府軍に勝利をもたらしました。
 また、譜代大名であった亀山藩のように、藩の意見がなかなかまとまらず、戦いが政府軍に有利になってきた様子を見て政府側についた藩も多くありました。
 これらの藩とは対照的に、桑名藩では、藩主松平定敬(さだあき)が兄の会津藩主らとともに、幕府を支えてきた重要人物であり、徳川慶喜と行動を共にしたので、藩の中の意見は、藩主定敬と一緒に幕府軍で戦いを続けるか、それとも形勢の有利な政府軍に従うかの二つに分かれました。そして、ついに神前でみくじをひいた結果、藩主と一緒に幕府軍で戦うことに決めたのですが、その後も意見の対立は続き、藩主のいなくなった桑名城は、新政府に従おうとした者たちによって明け渡されてしまいました。一方、藩主定敬たちは、桑名藩の領地がある越後の柏崎にのがれた後、会津若松や戊辰戦争の最後となる函館の五稜郭でも、政府軍と戦うことになるのです。
 したがって、桑名藩に対する新政府の処分は厳しいものでした。当初、桑名藩の新領地は定められず、藩主定敬の降伏した後の明治2年(1869)8月になって、約半分の5万石削減処分の上、旧領地が戻され、松平定教が藩主となって桑名藩の再興が認められたのです。
 このように、明治維新の激動の中で、各藩はそれぞれの道を決め、やがて廃藩置県を迎えることになります。

(昭和63年1月 伊東由里子)

津藩の戊辰戦争出陣<部分>(『先賢遺芳』より)

津藩の戊辰戦争出陣<部分>(『先賢遺芳』より)

参考文献

三重県史』資料編 近代1(政治・行政I) 昭和62年

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