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北海道開拓の先駆者村上島之允


 今日は、江戸時代、北海道に生きた、三重県出身の偉人、村上島之允を紹介しましょう。
 江戸時代、北海道というと、すぐ三重県一志郡出身の松浦武四郎の名が思い浮かびます。武四郎は「蝦夷地」と呼ばれていた北の地「北海道」の名づけ親として知られていますが、その北海道開拓の足がかりをつくったのが、これからお話しする村上島之允なのです。
 彼は、江戸の中頃、今から 230年前のことですが、現在の伊勢市に生まれて早くから学問に親しみ、秦檍麿(はたのあおきまろ)とも称しています。
18世紀も終わり頃になると、鎖国を続けてきた日本近辺も騒がしくなってきます。特に老中・松平定信は海防を重視する政策をとります。近藤重蔵にその才能を評価された島之允も、江戸湾や伊豆方面の測量・地図作成に参加したのがきっかけで、寛政10年(1798)、幕府の一員として蝦夷地の探索に近藤重蔵らとともにクナシリ・エトロフ島まで出かけることになります。
彼は、この年から10年間、この地で活躍しますが、彼の業績をいくつかあげてみましょう。
 まず第一は、アイヌの生活を観察して『蝦夷見聞記』をはじめとする種々の本を著しますが、これらの著書は、現在、アイヌの習俗を知る貴重な資料となっています。
 二つ目として、函舘の近くに住みついた島之允は、付近の農民に対し、直接に農耕の指導や植林、椎茸の栽培などの指導まで行っています。
 第三として挙げられるのは、測量の力量を十分に発揮していることです。『函舘表よりヲシャマンベ迄里程調』『蝦夷値の図』などの本を出し、またアイヌ語地名の研究にもすばらしいものを遺しています。
 島之允の門弟から優秀な人材が出ており、間宮林蔵もその一人です。彼は、カラフトを含む蝦夷図の作成に大きな業績をあげますが、文化5年(1808) に流行病により49歳で亡くなった村上島之允の遺志を継いで、大きな花を咲かせたと言えるでしょう。

(平成元年8月 松浦 栄)

島之允の記した『蝦夷島奇観』の一部(東京国立博物館蔵)

島之允の記した『蝦夷島奇観』の一部(東京国立博物館蔵)

参考文献

谷澤尚一「村上島之允をめぐって」『三重県史研究』第五号   平成元年
杉山荘平「秦檍丸の蝦夷島奇観」『考古学の先覚者たち』中央公論社   昭和60年

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