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盛んに行われた新田・溜池の開発


 江戸時代の産業の中心は農業でした。そのため、各藩は、財政の安定をはかり年貢の増徴の必要から、特に米つくりを奨励しました。そして、米の増産のために新しい土地の開発、灌漑用の池や用水路の建設等が重要な施策となりました。
 例えば、津藩では、慶安元年(1648)の凶作の時に、二代藩主藤堂高次は西島八兵衛に命じて、一志郡戸木村から雲出川の水をひいて、雲出井を完成させ、13カ村、およそ 600ヘクタールの水田をうるおしました。それから数年後、山中為綱は一志郡高野村で、いわゆる高野井を開き、田尻・日置・庄村等の八カ村 500ヘクタールの灌漑に成功しました。
 また、伊賀の美旗新田の開発は大事業で、奉行の加納直盛は西島八兵衛と協力して、明暦3年(1657)、二つの大池と53ヘクタールの水田をわずか5カ月で完成しました。この大事業は、伊賀の農民延べ1万3000人を動員したようです。このほか、桑名藩や長島藩内では、木曽三川の輪中地帯で大小数十の新田が開発されました。亀山藩では、大庄屋真弓長左衛門が私財を投じて開いた伊船新田があり、河芸郡三日市村の疋田市左衛門は、道伯池を作り、道伯新田を開きました。この池は「鈴鹿青少年の森」の中にあり、今でも風致をそえています。
 さらに三重郡保々の天春家の開いた保々新田、度会郡沼木郷の米山宗隆が開いた米山新田等もあります。また、県下最大の池は多気郡の五桂池で、現在ここを中心に観光開発が進められていますが、延宝6年(1676)に兄国、弟国の庄屋達の力で完成したもので、これによって、周囲4・3キロメートル、 120ヘクタールの水田が新しく開発されたのです。
 このように、江戸時代には藩の直営か、または村の有力者や商人の手で新しい土地を開き、池や用水路を建設して、そこに人々を入植させたりしました。現在「何々新田」という地名が各地にありますが、これらのほとんどが江戸時代に開発された新田集落なのです。

(昭和61年11月 生駒 勝)

多気町五桂池の航空写真(『国造りの歴史−中部の土木史』より)

多気町五桂池の航空写真(『国造りの歴史−中部の土木史』より)

参考文献

野田精一「一志郡水利史」『一志郡史』下巻 昭和30年
村治円次郎「伊賀美濃波多新田の開墾と加納氏」『碌々集』   昭和37年
仲見秀雄「疋田家の道伯新田開墾とその後の村方騒動」   『三重史学』15 昭和47年

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