戦前、伊勢湾で鮫騒動
この春、瀬戸内海にほおじろ鮫が出没、潜水夫一名が犠牲となる、いたましい事件がありました。
また、5月には、志摩郡浜島町の南張海上にも、鮫が出没、地元の海女さんたちが漁に出るのを控えたりしました。みなさんも、この鮫の襲来に非常に驚かれたことと思います。
しかし、戦前にも伊勢湾周辺に鮫が出没することが度々ありました。
昭和13年(1938)から15年の新聞を見てみますと、伊勢湾で鮫が出没、天草(てんぐさ)など海草採取にてんてこ舞いの海女さんたちを恐怖に震え上がらせているとか、一志郡の香良洲沖合へ鮫の群れが襲来、鰯をねらって仕掛けた網の周囲を泳ぎまわるので、漁民が漁に出ることもできない状態で悲鳴をあげている、といった記事が目に止まります。一方、中には、得意の銛突きで鮫を一突きで仕留めた、という漁民の話もあります。
また、昭和13年の『三重県水産試験場時報』を見てみますと、伊勢湾では、秋に鰯の来遊に伴い鮫が集団で進入することが多かったようです。鮫は一度現れると、網の設置場所を襲い、網をひきちぎり、漁獲高に大きな打撃を与えていました。
当時は、鮫が出没すると、海女や漁民は県水産試験場へ鮫退治を陳情、県水産試験場では、調査船五十鈴丸を出動させ、鮫退治に向かったのでした。その方法ですが、鮪延縄(はえなわ)を鮫捕獲用に改良した鮫延縄を使用し、鮫退治に当たったのでした。この鮫延縄は、傷みにくく、価格もわずかであるので、当時の県水産試験場では、各漁業組合で用意しておくことを指導しています。
鮫は、襲来時に捕獲作業を行えば、捕獲の成功率が高く、そして、鮫の集団は2、3匹捕獲されれば、遠く沖合に退散する習性をもっていたため、五十鈴丸の出動は、かなり効果があったようです。
なお、こうして捕獲された鮫は、どうなったと思われますか?当時の新聞を見てみますと、食料用としては臭いがきつく、ちくわの原料として使用された程度であったようです。
今日は、昭和10年代、伊勢湾に来襲した鮫についてお話しました。
(平成4年7月 多上幸子)
鮫騒動についての新聞記事切抜き
参考文献
『三重県水産試験場時報』第103号 昭和13年