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代議士浜田国松と「腹切問答」


 衆議院選挙が先月の18日に行われたのは、まだ記憶に新しいことです。明治23年(1890)に第一回総選挙が行われて以来100年が過ぎ、この間、三重県からも幾人かの議員が選出され、国会で活躍してきました。その中に、宇治山田市(現伊勢市)出身の浜田国松議員がいます。
 昭和11年(1936)11月、現在の国会議事堂である帝国議会議事堂が竣工されました。しかし、このころ、国の政治はその年に起こった二・二六事件等をはじめ様々な形での軍による干渉が見られ、その影響を受けざるを得ない内閣とそれに反発する議員との間には険悪なムードがありました。翌年の1月21日、新しい議事堂で最初の議会が開かれました。その日の質問者の一人が浜田国松でした。
 彼は、「軍人は政治に関わってはならないはずである。軍という立場で政治を行うところに危険がある」と指摘しました。つまり、浜田国松は軍による政治干渉を正面切って批判したのでした。答弁に立った寺内寿一陸軍大臣は顔を紅潮させ、「浜田議員の質問は軍を侮辱するものではないか」と憤慨しました。これに対して、浜田は、「私の発言のどこに軍を侮辱した部分があるか、事実をあげよ」と寺内大臣に迫りました。「速記録を調べて僕が軍隊を侮辱した言葉があったら割腹して君に謝する。なかったら君が割腹せよ」と詰め寄りました。これが後世有名となった「腹切問答」です。
 このとき、浜田国松は70歳、議員歴30年を超す政界の長老でした。いろいろな制約により言いたいことも言えない、軍の横暴に対する国民の不満が高まっていた時期でもあり、浜田と寺内大臣の議会でのやりとりは、国民にとって大きな反響を呼び、議会にも波紋を投げかけました。2日間議会は停止し、そのまま広田弘毅内閣は総辞職してしまいました。
 明治37年以来代議士として国の政治を見続けてきた浜田国松の目には、議会の精神が変わってきたと見えたのでしょう。彼の発言には政治に対する憤りが感じらるようです。これ以後も軍部による干渉は減ることなく、この年の夏にはついに中国と戦争を起こしてしまいます。
 そして、2年後の昭和14年に彼は死去しますが、その胸の中はどのようだったでしょうか。

(平成2年3月 林みどり)

浜田発言と議会状況を報じる号外(昭和12年1月22日付け)

浜田発言と議会状況を報じる号外(昭和12年1月22日付け)

参考文献

『第七〇回帝国議会衆議院議事速記録』(官報号外) 昭和12年
川崎秀二『三重政界の闘将たち』内外政局研究会 昭和49年

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