トップページ  > 県史あれこれ > 厳しかった津藩のキリシタン取締り

厳しかった津藩のキリシタン取締り


 今日はクリスマス。そこで、津藩のキリスト教についてお話ししましょう。
 日本に初めてキリスト教が伝えられたのは今から約 440年前、16世紀の中頃です。当時の日本ではキリスト教はキリシタン、あるいはバテレン教などと呼ばれ、大名のなかにも熱心な信者が現れるほどでしたが、豊臣秀吉は国内統一の妨げとなると考えて宣教師を国外に追放し、次の徳川幕府は、しばしばキリスト教禁止令をだします。有名な天草四郎の島原の乱のあとは、ますますその取締りを厳重にします。
 江戸時代、津の町にもキリシタン取締りのための掲示板、いわゆる高札が出されますが、その中には、信者を訴え出た者には懸賞金を与えるという項目もあり、のちには、その金額も増やされます。
 藤堂藩はまた、津の岩田川河口の堤防上に「川口番所」と呼ばれる見張り所を作りますが、これは何のために設けたのでしょうか。
 当時の文書には「キリシタンは工夫深いものであるから、小さな舟でもって日本人に紛れこみ、浦々へ上がるおそれが十分あるから」と書かれています。そして、この川口番所には、当初は「舟改め役」と称して侍2人と鉄砲組10人が交代して当番に当たっていた、というほど厳重をきわめたようです。
 このような厳しい取締りにもかかわらず、江戸時代の初めごろは、藤堂藩士の関係した事件だけでも3件が記録に残されています。
 そのうちの一つに、 300石どりの武士であった鯰江(なまずえ)九右衛門が中心となったものがあり、彼とその家族、足軽1人、それに津の城下に住んでいた職人ら合わせて30人近くが処刑されます。鯰江らの主だった4人はいわゆる「逆張付」にされ、生きたまま頭を下にして張り付けにされますし残りは「打首」になります。このとき、10歳にも満たない男の子2、3人はキリストの教えを唱えながら首を打たれていったということです。
 この処刑を確認するための幕府からの使いが、わざわざ津まで来たとの記録もあり、当時の取締りの厳しさがよく窺えます。
 また、津市西古河町の国魂神社宮司の倉田有武邸には、京都の古田織部家(キリシタン大名)から移されたと伝わるキリシタン燈籠(織部燈籠)がありますが、これは幕末になって塚から掘り出されたもので、キリシタン取締りが厳しくなった江戸初期に土中に埋められたのでしょうか。
 なお、こうした取締りがなくなり、政府がキリスト教を認めるのは、やっと明治6年(1873)になってからのことです。

(昭和62年12月 松浦 栄)

キリシタン燈籠(倉田有武氏蔵)

キリシタン燈籠(倉田有武氏蔵)

参考文献

『津市史』第二巻 昭和35年
津市教育委員会『津市の文化財』平成元年

トップページへ戻る このページの先頭へ戻る