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多くの学者集まった豊宮崎文庫と林崎文庫


 皆さんは豊宮崎(とよみやざき)文庫と林崎文庫を御存知でしょうか。どちらも現在は訪れる人も少なくなっていますが、かつて、ここには、本居宣長やのちに貧民救済を唱え乱を起した大塩平八郎ら有名な学者たちが数多く集まったのです。外宮近くにある旧豊宮崎文庫は、門と築地塀を残すだけとなりましたが、内宮宇治橋とは反対側の石段を登りきったところにある旧林崎文庫は、今でも落ち着いたたたずまいを見せてくれています。豊宮崎文庫が外宮権禰宜で国学者でもある出口延佳(のぶよし)らの呼びかけで建てられたのは、江戸時代初めの慶安元年(1648)のことでした。それまで伊勢神宮には内宮に「文殿(ふどの)」、外宮に「神庫(しんこ)」という建物があり、書籍などが収められ学問の場でもあったのですが、禰宜以下の者には利用が許されていなかったのです。延佳らは広く一般にも利用できる文庫をめざしていたようです。
 豊宮崎文庫が広く世間に知られるにつれ、多くの学者から書籍の寄贈が相次ぎ、それによって蔵書は充実したものになりました。また、毎月定期的に行われる和学・漢学の学習会に加え、講演会も行われました。
 林崎文庫は、豊宮崎文庫から遅れること42年、元祿3年(1690)に建てられました。その設立に当たっては豊宮崎文庫の影響が大きかったと言われています。しかし、林崎文庫の運営は、最初から幕府から下りるお金に頼り、計画的でもなかったので苦しいものであったようです。
 けれども、一方では本居宜長がその援助を惜しまず、今も石碑に刻まれている「林崎ふみくらの詞」を贈ったりしました。そして、図書の寄贈も多くあり、京都の呉服商で国学に関心の深かった村井古巌(こがん)は3,707 部の蔵書を献納したとも言われています。
 明治になると、豊宮崎文庫は宮崎学校となり、明治11年(1878)失火により講堂を焼失しましたが、その蔵書は難をのがれ、明治44年神宮に献納され、現在大部分が神宮文庫に収蔵されています。また、林崎文庫は明治6年に神宮に献納され、書籍は明治39年の神宮文庫開設とともに神宮文庫に引き継がれました。
 豊宮崎・林崎両文庫跡は共に史跡に指定されています。伊勢市管理の豊宮崎文庫跡は自由に立ち寄れます。林崎文庫跡は公開日以外は立ち入れませんが、神宮に参拝されたときにでも足を止めて、多くの学者が集まった時代に思いを馳せてみてはどうでしょう。

(平成4年6月 平澤ひとみ)

旧豊宮崎文庫(平成7年9月撮影)

旧豊宮崎文庫(平成7年9月撮影)

旧林崎文庫(神宮文庫提供)

旧林崎文庫(神宮文庫提供)

参考文献

『伊勢市史』 昭和43年
『三重県教育史』第1巻 三重県教育委員会 昭和52年

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