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70 葉書絵と西田半峰


Q 近所に「半峰」という人が描いた葉書絵を持っている人がいます。姓は西田といい、三重県の生まれで、東京で画家をしていたそうです。また、葉書絵はほかにもたくさんあると聞きました。西田半峰という人について詳しく教えてください。

(平成九年十月 県内個人)
A 西田半峰は、本名を武雄といい、明治二十七年(一八九四)に、一志郡七栗村大字森(現久居市森町)に生まれました。六歳のとき、横浜に住む母親の従兄弟から養子に迎えられ、以後、昭和二十年に戦災に遭い、郷里に疎開するまでの間を東京を中心とした関東地方で過ごします。
 三重県では絵や狂歌のかかれた葉書が有名ですが、これは言わば晩年の業績で、戦前の彼は芸術家であり、また日本で最初の洋画商でした。このほか、エッチングの普及者であり、日本近代美術史の在野研究者でもあるという多方面に大変活躍した人物でした。
 養子先で幸福な少年時代を過ごした西田は、小学校卒業後、横浜商業学校に入学しますが、在学中に絵の勉強を始め、第八回文展に水彩画が入選します。本人は美術学校への進学を希望しますが、養父の反対もあって実現せず、学校を出ると、本郷洋画研究所に入って自活しながら絵の勉強を続けていきます。この頃にエッチングを知り、その研究を思い立ちます。当時、エッチングについて知る人はほとんどなく、道具も手に入りにくい状況でしたが、彼は外国から道具を取り寄せるなどして様々な苦労を重ね、やがてエッチングを試作します。
 その後、彼は大正十二年(一九二三)の関東大震災後に「室内社画堂」を開店しました。画家の個展を積極的に開催したり、写生旅行や展覧会準備のために必要な資金を貸す金融機関(一種の質屋)をつくるなどの活動を行います。これは今日の画商が持つ要素のほとんどを実践しており、日本洋画商の草分けとして評価できます。
 また、芸術家としてのあり方をエッチングに見い出した西田は、画商の仕事と並行してエッチングの普及に努めます。全国各地でエッチング講習会を催したり、『エッチングの描き方』という本を出版したりし、昭和七年には雑誌『エッチング』を創刊します。こうした活動により彼の門下からは多くの版画家が出ています。
 このように、エッチングは次第に根をおろしていきますが、時代は戦争へと移っていきます。大政翼賛会の指導によって日本版画奉公会が結成され、雑誌『エッチング』も『日本版画』と改題します。やがてそれも廃刊となり、空襲に伴い室内社画堂も失われます。疎開先の郷里で終戦を迎えた西田は、以後そこに住み着きます。半峰という名は、日本版画奉公会の略称である「版奉」をもじったものです。
 葉書絵は、昭和二十七年一月一日より五〇、〇〇〇枚を目標に始められました。しかし、三十六年の七月に二六、七四四枚まで書いたところで病に倒れ、同月二十六日に六十七歳でこの世を去りました。最後の葉書絵は七月二十三日付けで、まさに亡くなる直前まで書き続けていた様子がうかがわれます。

参考文献

今井貞吉「画人西田半峰」 『芸術三重』一六号 昭和五十二年
復刻版『エッチング』 臨川書店 平成三年

葉書絵

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