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68 津市の戦災状況


Q うちの団体は戦後復興の中で誕生してきました。「戦後五十年」の今年、団体の記念史的なものを考えています。ところで、津市の第二次大戦の戦災状況がわかる資料はないでしょうか。

(平成七年十月 県内団体職員)
A 津市の第二次大戦の戦災状況については、津平和のための戦争展実行委員会が発行された『津の戦災 記録と回想』がたいへん参考になります。戦災を受けられた市民の体験記のほか、戦中の日記・米軍の焼夷弾攻撃資料の翻訳・当時の新聞記事・米軍がまいた伝単(宣伝用のビラ)などの資料、さらには、「空襲展ごと参加者の教示を加えて作りあげ」られた津市戦災地図や空襲時刻表も収録されています。これらの資料を一つ一つ突き合わせれば、津の空襲や被災の状況をより詳しく知ることができますが、ここでは、その概略を見てみましょう。
 まず、最初の津への空襲は、昭和二十年(一九四五)三月十二日で、贄崎・阿漕の海岸や安東・北河路の水田が爆撃されました。早朝の海岸・水田であったため、人的被害は出ませんでしたが、三月十九日の二回目の空襲では長岡地区で死者一人、四月七日の三回目空襲では神戸地区で死者二六名があり、段々と被害は大きくなっていきました。
 さらに、六〜七月になると、ますます激しい空襲が繰り返されました。中でも、六月二十六日の空襲は、特に軍需工場等が攻撃目標とされ、死者一七四名・傷者一九〇名の被害(第一復員省作成『全国主要都市戦災概略図津市』─以下「戦災地図」という)を受けました。次に、七月十六日にはP51等の戦闘機によって津市内へ機銃掃射が浴びせられ、御殿場あたりでは死者も出たようですが、その実態は不詳です。最も被害の大きかった空襲は七月二十四日で、市街中心部に爆弾が投下され、死者約一、二〇〇名、負傷者約二、〇〇〇名に達したと言われています(「戦災地図」では死者九四七名・傷者四七一名)。また、七月二十八日深夜から二十九日未明にかけての空襲も激しく、焼夷弾が「雨あられのように」投下され、ほぼ市街地一円が炎上しました。罹災した家屋は約一〇、〇〇〇戸で、死者三四四名・行方不明三八名に及びました(「戦災地図」)。
 以上が主な津市の空襲ですが、被害者数については資料によってまちまちです。死者について、前述の数を加算してみると一、四九二〜一、七四五名となり、戦後の経済安定本部の『太平洋戦争による我国の被害総合報告書』では一、八八五名となっています。そうした実態から、津の空襲を記録する会では、寺院等の過去帳などに当たり、被害者一人一人を確認するという地道な調査を進められ、その成果も『津の戦災−記録と回想』に収められています。
 また、四月七日の空襲では、神戸国民学校の教頭と六名の女教師が運動場の防空壕で爆撃を受け即死されましたが、今も神戸小学校の跡地に七名の先生の碑が建てられ、その悲惨さを伝えていますし、寺町の寒松院には、七月二十四日の空襲で破損された藤堂藩主の墓石があり、当時の凄さを物語っています。文献資料だけでなく、こうした戦災地の調査や戦災に遭われた人たちの聞き取り調査なども行い、戦災状況をより明らかにしていく必要があります。

参考文献

『三重県史』資料編 近代2(政治・行政 II) 昭和六十三年
津平和のための戦争実行委員会『津の戦災 記録と回想』平成元年

津の戦災状況(津市 太田金典氏蔵)

津の戦災状況(津市 太田金典氏蔵)

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