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67 戦時下の伊賀焼と佐那具陶磁器研究所


Q 第二次大戦以前、伊賀焼は景気が良かったようですが、どんな状況だったのでしょう。また、上野市佐那具に陶磁器研究所があったと聞いていますが、それに関する資料はありますか。

(平成九年一月 県内行政機関)
A 戦前の伊賀焼の状況については、平成元年一月に二人の伝統工芸士の方から話を聞き、『三重県史研究』第五号に「回顧録 伊賀焼七〇年」としてまとめたものが大いに参考になります。
 二人の話によれば、昭和初期は丸柱村・槙山村・石川村(現阿山町)の伊賀焼の谷あいにも不況の波が押し寄せ、行平・土鍋などの売れ行きは芳しくなく、轆轤師たちも轆轤を回さず、土鍋を下げて各地に売りに出たということです。製陶所では人員が余り気味になったり、製造をやめてしまったところもありました。『三重県統計書』で確認してみますと、大正九年(一九一七)の阿山郡下の陶器製造戸数三九戸が昭和九年(一九三四)には二六戸の三分の二に減少しています。
 しかし、十二年に日中戦争が起こり、金属器の供出が開始されると、アルミ鍋に代わる土鍋や行平が飛ぶように売れ出し、把手のとれたものでさえ買い求める人があり、作るのが大変で、早朝から夜遅くまで仕事をしても追いつかないほどであったと二人は回想されています。また、『三重県統計書』でも阿山郡陶磁器「製品価額総額」が九年の二七七、八四〇円に対し、十六年は五九〇、七四三円と大きく増加しており、いかに伊賀焼の製品が多く作られ買い求められたかがわかります。
 さらに、十三年には県の窯業試験場の分場が丸柱村に置かれ、釉薬・絵具・素地・デザイン等の研究が進められることになりました。中でも、金属に代わる「代用品」の試作には熱心で、当時の新聞には多くの「新興作品」が紹介されております。例えば、ストーブ・ガスバーナー・鎖・湯たんぽ・タオル蒸器・陶製犂先・ボタンなどで、先の二人の話ではすべて実用化されるには至らなかったようですが、戦時下の金属不足の中で金属鍋に代わる土鍋や行平と同様に伊賀焼が注目されたのです。
 お尋ねの佐那具陶磁器研究所は、十六年七月に財団法人として創立され、二十二年に解散しています。初代所長は小森忍で十八年五月に退職しています。四十三年発行の『伊賀焼通史』に「研究制作品名は、中国、朝鮮、安南焼などが、その対象で、─(中略)─制作品は販売せず大阪阪急百貨店で展覧会を催したことなどもあった」と、その活動内容を記しています。また、研究員には当時国立陶磁器試験所の所員で、伊賀焼の海外輸出にも尽力された日根野作三氏らも加わっていたようですが、陶磁器研究所は終戦をはさむ短い期間の設置であったためか、現在確認できる関係資料は少なく、詳しいことはわかりません。今後の資料調査の必要性を痛感するところです。
(平成28年12月14日改定)

参考文献

桂 又三郎『伊賀焼通史』河出書房 昭和四十三年
笹山常次郎・福森金吾「回顧録 伊賀焼七〇年」『三重県史研究』第五号 平成元年
『小森忍 日本陶芸の幕開け』「小森忍展」実行委員会 平成二十一年

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