トップページ > 運営ホームページ  > 県史Q&A > 58 北海道移住と田中常次郎

58 北海道移住と田中常次郎


Q 津の納所出身の田中常次郎は、明治期に北海道富良野への移住や開拓に貢献したようですが、どんな様子だったのでしょう。今回、地元の安東地区では碑を建て、顕彰したいと考えています。様子のわかる資料はありませんか。

(平成九年五月 県内個人)
A 明治時代、三重県から多くの県民が北海道へ移住しました。最初の団体移住は津の岩田組合で、明治二十三年(一八九〇)篤志家の板垣贇夫が「確実なる新農村を興」すことを目的に移住組合を組織しました。そして、二十六年に石狩地方の空知郡幌向原野に土地借受けの許可を得て、二十七年四月四三戸、同九月一〇戸、二十八年二七戸の世帯が移り住み、開墾に着手しました(『殖民公報 第三号』)また、二十九・三十年には、木曽川改修の影響もあって、桑名郡の伊曽島・長島・木曽岬の人たち約七〇世帯が天塩地方の苫前郡古丹別原野に移住しました(『同 第六〇号』)。
 さらに、三十年には空知郡富良野原野に六二戸二七〇人が三重県から入植しました(『同 第七十号』)。なお、この入植戸数について、「百余戸」とか「八十三戸四百八十四人」とかなっている資料もありますが、この富良野原野の移住や開墾の先頭に立ったのが田中常次郎です。三重県には関係の資料が残っていませんが、『上富良野町史』に詳しい記述があります。以下、それに従って述べてみましょう。
 常次郎は、安政五年(一八五八)二月生まれで「青年以来拓北の志は止むにやまれぬものがあった」ようですが、最初の団体移住には、親類がこぞって反対したため加わりませんでした。その後、家族にも知らせず一人北海道に行き、幌向にいた板垣贇夫を訪ね、新天地への熱い希望を述べ、移住を引き受けてもらいました。ところが、次々に移住希望が寄せられため、幌向原野では入植地の余裕がなく、常次郎は再三渡道し、富良野原野で最終的に一五〇戸分の許可を得ました。三十年になって移住団体が組織され、常次郎は自ら団体長(厳密には副団体長)となり、三月十八日に第一陣の三〇名が四日市港を出港しました。
 北海道では、小樽に上陸し、炭鉱鉄道や徒歩で既に開拓を開始していた平岸の三重団体にひとまず落ち着きました。それ以後は、常次郎を筆頭に組長の七名が富良野原野をめざしました。切り立った岩山や滝の多い空知川の難所、木を切り倒して一本橋を作ったりして、四月十二日に上富良野村西三線北二十九号の百七十五番地にたどり着きました。そこは、樹木が少ない「かや」や「すすき」の原野で、真ん中に楡の木が一本あり、一行はこの楡の木の下で野宿をしました。この木は、いつの頃からか「憩の楡」と呼ばれようになりました。大正十五年(一九二六)の十勝岳爆発でその面影を失いましたが、その跡地には昭和二十一年四月十二日の富良野村開村五〇年目に記念碑「憩の楡」が建立され、その碑には「田中常次郎ヲ団体長トスル氏外八名ハ本道開発ヲ志シ人跡未踏ノ此地ニ到リ──一夜其ノ木ノ下ニ明カシ爰ニ永住ノ計ヲ樹テラル即チ沿線発祥ノ地」と記され、そのときのことを伝えているとのことです。
 その後、家族たちも富良野に来て、開墾の毎日が続きました。開墾した土地からの収穫は三年ぐらいの年月が必要で、その間、鉄道工事や国道工事に働きにも出たりしての生活であったようですが、やがて戸数も増え、鉄道も開通し、富良野に新郷土が建設されたのです。
 そして、明治三十年初めて富良野に入植して以来一〇〇年となる平成九年、津市と上富良野町は「友好都市提携」、津市の安東小学校と上富良野西小学校は「姉妹校提携」を行い、今後の交流を約束しました。

参考文献

『上富良野町史』 昭和四十二年
岡 正基「田中常次郎──北海道上富良野町開拓の草分け」『津市民文化』第六号 昭和五十四年

安東小学校内 碑

安東小学校内 碑

トップページへ戻る このページの先頭へ戻る