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57 従軍布教師・太田覚眠和尚


Q 太田覚眠という人物について、いつ頃の人なのか、どのようなことをした人なのか、全然わかっていないので、申し訳ないのですが、県史編さん室保管の資料で一度調べてくれませんか。

(平成七年九月 県内行政機関)
A 太田覚眠という人物については、名前だけわかっているだけで、いつ頃の人なのか、どのようなことをした人なのかはわかっていませんから、いつ頃の人なのかを推量して人物に関係する各種の資料をしらみつぶしに調べることにしました。
 こういう調査では、時間をものすごく食うもので、なかなか見つかりませでしたが、幸い『地方発達史とその人物』という本の「人物編」に「住職 太田覚眠師 四日市市末永」として写真と略歴の記載があることが確認できました。記載内容をたよりにして、伊勢新聞などの資料を探しましたが、残念ながら、上記以外の資料は確認することができませんでした。
 そこで、『地方発達史とその人物』の記載内容からまとめてみますと、和尚は慶応二年(一八六六)に生まれ、西本願寺僧侶として日清・日露戦争及びシベリア出兵に従軍布教師として参加しています。特に、日露戦争のときには単身で浦潮(ウラジオストック)に踏みとどまって、シベリア奥地に抑留捕虜となっていた同胞八百余人を救助し、獨乙(ドイツ)を経て日本に送還させています。平和回復後、再度ロシアに渡ったところ、革命の乱に遭いながらも、革命政府の下にあって三十余年布教活動に従事し、浦潮に「念仏胸像」を建設して帰国した傑僧であるということです。『ロシア物語』・『レ─ニングラ─ド念仏物語』・『ロシア詩集』などの著書もあるほか、昭和十年に海外教化の功により天杯を授与されたということです。このとき、七十歳の高齢ながら法泉寺の住職として念仏三昧に世を送られていたと書かれていますが、それまでの凄まじいまでの生きざまが、この簡単なプロフィ─ルの字間からうかがえる気がします。なお、蛇足ですが、この法泉寺というお寺は、鳥羽伏見の戦い後、藩主不在となっていた桑名藩が四日市に来ていた官軍に恭順するために、幼い松平万之助(のちの定教)を代表として家老らが官軍本営真光寺に出頭したところ、この寺に抑留され、約一〇〇ケ日間謹慎蟄居して恭順の意を表したという舞台になったところです。
 また、平成九年九月には四日市市立博物館が「近代四日市の幕開け」展で、この太田覚眠を一つの展示テーマに取り上げています。このときの目録には「(昭和)一一年に七十一歳という高齢にも拘わらず蒙古ラマ教の顧問として迎えられ、ラマ僧の指導にあたった。同一九年に蒙古ラマ教本山集寧寺において亡くなる」と解説しており、『地方発達史とその人物』のあとの太田和尚の活動がわかります。

参考文献

鈴木善作『地方発達史とその人物』 郷土研究社 昭和十年
『桑名市史』本編 桑名市教育委員会 昭和三十四年
『近代四日市の幕開け』 四日市市立博物館 平成九年

太田覚眠師

太田覚眠師

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