トップページ > 運営ホームページ  > 県史Q&A > 54 デ・レーケと四日市港

54 デ・レーケと四日市港


Q 明治の前半期、木曽川の改修工事などの指導で有名なデ・レーケは、四日市港築港の計画にも関わっているということですが、どう関わったのですか。わかっていることを教えてください。

(平成九年四月 県内個人)
A ヨハネス・デ・レーケは、一八四二年に、オランダのゼーラント州コリンスプラートに生まれました。明治六年(一八七三)、内務省土木局の御雇外国人として来日し、木曽三川分流工事や三国港(現福井港の一部)築港工事など各地の土木水利工事を指導しました。
 四日市港との関係は、九年に三重県の岩村定高県令が調査を依頼したことに始まります。
 当時の四日市港は、三年の東京航路開通に伴って、東海・北陸・近畿の各地方から京浜・東北方面へと出入りする旅客や貨物のすべてが四日市港を経由するという状態で、大変なにぎわいを見せていました。しかし、安政元年(一八五四)の大地震による堤防決壊などで、港口が流砂に塞がれるようになり次第に荷役が困難になってきました。
 このままでは四日市港が衰退するとの危機感を持った地元の資産家・稲葉三右衛門は、私財を投じて港の修復を行います。工事は明治六年三月に始まり、一時中断されたり県営事業になるといった曲折はありましたが、三右衛門はこれを成し遂げ、十七年五月に現在「旧港」と呼ばれる部分が完成します。
 こうした動きの中で、三重県では新たな四日市港修築計画が懸案となっていました。
 デ・レーケは、何度かの調査を経て十九年(二十年とも考えられます)に計画図を提出します。その計画は、稲葉三右衛門が築いた港の南側に新たに大規模な港を造るというものでした。また、彼とは前後して別の人物も同様の計画図を提出していますが、いずれの計画も財政難のため、結局は着工されるに至りませんでした。
 しかしながら、デ・レーケの計画がその後の四日市港築港の原型となっているようです。
 デ・レーケが四日市港築港の計画に携わったことは、「履歴書」(国立公文書館蔵)や四日市港の歴史を記した各種の文献には述べられていましたが、それを裏付けるような具体的な史料は見られませんでした。
 ところが、最近、県史編さん室が所蔵する「四日市港近傍町村之図」という図面の港湾部分に鉛筆の書き込みがあり、それが研究者の調査によってデ・レーケ自筆のものと判明しました。四日市港の歴史を考える上で貴重な発見であり、今後注目されることでしょう。

参考文献

『四日市市史』第十一巻 平成四年
『近代四日市の幕開け』展図録 四日市市立博物館 平成九年

デ・レーケ自筆のメモ

デ・レーケ自筆のメモ

関連リンク

トップページへ戻る このページの先頭へ戻る