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53 明治の木曽三川改修工事


Q 昔、木曽三川は、上流で豪雨があると揖斐・長良・木曽川の順に出水し、川床は木曽・長良・揖斐の順に低く、最後には揖斐川に流入遡上し、いつまでも減水しなかったため堤防を決壊し、三川中流域までも入水・滯水の大被害を常に起こした川だと聞きました。この木曽三川の治水については、薩摩藩の「宝暦治水」は有名ですが、明治の大改修工事の概要を教えてください。

(平成七年十月 県内個人)
A 明治時代になっても、宝暦四〜五年(一七五四〜一七五五)の治水工事で揖斐川と長良川を分流した油島千本松の堤より下流域では、木曽三川がはっきりと分流されておらず、洪水などの被害が絶えませんでした。
 そこで、明治六年(一八七三)、政府は、オランダ人技師ヨハネス・デ・レ─ケを招聘し、治水の策を講じることとしました。彼は、この事業に渾身の情熱を傾け、基礎調査を進め、十九年に木曽三川分流計画を完成させました。この計画は、三川分流を主眼として、新川の掘削や川幅の拡張・矯正あるいは新堤・導水堤の築造などを行うというものでした。
 これを受けて、政府は、二十年に木曽三川改修工事に着手しました。当初は「十六箇年継続事業」の計画でしたが、途中で延期され、「遂ニ大正元年度ニ於テ全部ノ竣工」となりました。工事は、国のほか岐阜・愛知・三重県などが分担していましたが、明治三十一年度以降は河川法によって「国ニ於テ専ラ施工ヲ任スルコト」となり、大正八年(一九二〇)十月には内務省土木局がこの工事記録をまとめています。さらに、この工事記録は昭和四十三年に『木曽川改修工事』と題して建設省木曽川下流工事事務所が複製しました。以下、これによって、「施工ノ順序及経過等」を見てみましょう。
 まず、第一期は明治二十〜二十八年度で、「施工区域ヲ木曽川筋ニ限リ、且之ト関聨シテ付換ヲ要スル長良川ヲ完成スルヲ目的」とし、ほかにも「関西鉄道線以下築堤及浚渫ノ進捗ニ伴ヒ制水工事」や「水源山地ニ砂防工事」が行われました。第二期は二十九〜三十二年度で、「長良及揖斐ノ改修工事ヲ遂行シ──派川締切堤防及各所ノ締切ヲ為シ三川ヲ分流スルヲ目的」に工事が進められたようです。そし
て、第三期は、三十三〜三十八年度に「直接分流ト関係ナキ揖斐川筋、松ノ木以上ノ改修ヲ行フモノ」で、第四期は三十九〜四十四年度で「追加工事ニ係ル揖斐河口導水堤、長良・揖斐両川河口分水工事」などが実施されました。総工費約九七五万円(うち三重県負担金約四五万円)で、当時としては全国最大の土木工事として世間の注目を浴びました。
 しかし、工事期間中には、二十四年の濃尾大地震や二十九年の大洪水、その上、日清・日露戦争も勃発して大変であったことがうかがえます。さらに、工事の該当地域では転居を余儀なくされたところも見られました。現長島町関係でも一二集落もあり(『長島町誌』)、工事実施に対する抵抗も相当強かったようです。また、この頃、北海道への移住が盛んに叫ばれ、長島や伊曽島の多くの人たちも木曾川の改修工事に伴って、北海道へ移り住みました。北海道庁の発行した『殖民公報』にも、たびたび「長島団体」とか「伊曾島団体」の記事が出され、「木曾川改修の為」という理由もあげられています。

参考文献

『桑名市史』補編 昭和三十五年
『木曾川改修工事』内務省土木局 大正八年 建設省木曾川下流工事事務所複製 昭和四十三年
『長島町誌』下巻 昭和五十三年

明治改修竣工図

明治改修竣工図

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