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46 津の「御台場」事情


Q 「御台場」について、辞書を引くと「おだいば 幕末頃、異国船に備え各所の海岸に設けられた砲台のこと、普通には江戸品川沖に築かれたものをさす」とあります。「各所の海岸に」ということや「昔の津にもあったんだ」と祖父に聞いたことがありますので、津における御台場の概要を教えてください。

(平成八年八月 県内個人)
A 十八世紀後半、日本の近海に出没する外国船が多くなりはじめ、十九世紀に入ると、露・英・米などの軍艦や貿易船・捕鯨船で日本に立ち寄るものがますます多くなりました。幕府は、文化三年(一八〇六)、外国船を穏便に帰すとともに漂流船には薪水を与えることとし、一方では警備を厳重にすることを命じました。その後、外国船の暴行事件を契機として、文政八年(一八一一)異国船打払令を出しましたが、モリソン号事件や阿片戦争などもあって、天保十三年(一八四二)には文化三年の令に復帰しました。すなわち天保の薪水給与令です。そして、嘉永六年(一八五三)のペリー来航、翌七年の日米和親条約の締結を経て、日本は開国しました。
 こうした動きの中で、日本国内では攘夷論が刻々と高揚し、伊勢・志摩地域でも海防急務の声が盛んとなっていました。津藩では、幕命を受けて南伊勢・志摩の沿岸防備や伊勢神宮警護の任に当たり、度会郡の二見や今一色に砲台を築いていました。そして、文久三年(一八六三)には、津藩の海の玄関口を守るために贄崎にも砲台を築きました。
 砲台築造用の土砂は青谷付近から陸路で運んだり、岩田川上流の山地から舟で運んだりして、数十日で完成したそうです。県史編さん室所蔵の「贄崎砲台図」を見てみますと、海岸に向いた砲台正面に六門、南北両脇に五門の大砲を備えていたことがわかりますが、実戦として使われることはなかったようです。
 この砲台跡は、その後、長く「御台場」の名で市民に親しまれていましたが、昭和四十年頃に整地され、青果市場などになってしまいました。
 さらに、津藩は、贄崎砲台の完成後に引き続いて西浦砲台も築きました。そこは、伊勢街道筋で小舟の荷降し場でもあり、後背の武家屋敷一帯も警護することができる好適地でした。約三ケ月で完成したようですが、実際に大砲が装備されたかは不明です。この砲台跡は、現在の塔世橋のすぐ上流で、旧市町村会館の西側の場所に当たります。

参考文献

三重県教育委員会『三重の近世城郭』 昭和五十九年
『津市史』第一巻 昭和三十四年

贄崎砲台跡

贄崎砲台跡

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