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44 志摩のはしりがね


Q 風俗史の研究をしたいと考えていますが、古く志摩地方に「はしりがね」と言われる船遊女があったようですが、それに関する資料や参考文献がありませんか。わかる範囲で聞かせてください。

(平成九年一月 県外個人)
A 「はしりがね」の研究については、鳥羽出身の風俗研究家・岩田準一(一九〇〇〜一九四五)がその先駆者であり、その成果は昭和十五年に出版された『志摩のはしりがね』という小冊子にまとめられています。この小冊子は、それまで新聞や雑誌に投稿した原稿を整え、氏が四十二の厄祝いに私家版として知己に配ったものでした。そのため、部数が少なく、同四十七年に御子息の岩田貞雄氏が写真挿画を増やし改装編集して復刻されました。さらに、関連する資料も付録に収録され、「はしりがね」を研究する基本的な文献となっています。
 ところで、「はしりがね」という名称ですが、上記文献では安永四年(一七七五)版の『物類称呼』(越谷吾山編)から「伊勢ノ山田にて艶女といふ。同国鳥羽にてはしりがねと云」を引用して、かなり古くから「はしりがね」と言われていたとしています。また、その語源についても、相手の船人たちの衣服の綻びも縫うという「はりしかね(針師兼)」の転訛とか、港に船が入ると遊女たちは急いで船出の準備をし、走りながら鉄漿(おはぐろ)をつけたからだとか、「はしり」は最初のとか真新しいの意味で、江戸〜大坂の中間に位置する鳥羽は船人たちの最初の消費地だったとか、さらには、「走り蟹」とか、動き働いて金を得るからとか、様々な説があげられています。
 どの語源が正しいのか確定できませんが、いずれにしても、汽船のなかった頃の海上運送には何百・何千石の積荷を積載する帆船が利用され、風待ち・風避けのため湾内の港に長く留まることもあり、船人たちの相手をする遊女が志摩地方の各港に置かれていたようです。殊に、安乗・渡鹿野・三箇所では「菜売り」とも呼ばれ、体面上は菜を売るという形で遊女とされていました。また、「洗濯奉公」という表現の「請状」などもあります。
 地域のこうした独特な名称や背景にも注意しながら、歴史的な資料に当たり、その当時の社会的状況や女性差別の実態解明など、更に進める必要があります。

参考文献

岩田準一、岩田貞雄『志摩のはしりがね』 鳥羽志摩文化研究会 昭和四十七年

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