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39 大黒屋光太夫とその帰郷


Q 映画でも話題になりましたが、白子の船乗りであった大黒屋光太夫の漂流やロシアでの動きなどについて,その様子を教えてください。また、光太夫の帰郷に関する古文書が発見されたということですが、概略を聞きたい。

(平成七年八月 県外個人)
A 大黒屋光(幸)太夫の漂流については、既に多くの書物がありますが、簡単に経緯を見てみましよう。
 亀山藩下の南若松村(現鈴鹿市)生まれの光太夫は、天明二年(一七八二)十二月に神昌丸の船頭として江戸への荷物を回送中、遠州灘沖で遭難してしまいました。折からの黒潮に乗り、船は北へ北へと流され、翌三年の七月にアレウト列島西端のアムチトカ島にたどりつきました。アムチトカ島では四年生活し、天明七年(一七八七)七月にそこを立ち、カムチャッカ半島のニジニ・カムチャックに一時滞在しました。漂流以後、寒さや飢えによって多くの乗組員が亡くなったりしましたが、その後、オホ−ツク海を越え、寛政元年(一七八九)二月にはバイカル湖畔のイルク−ツクに到着しました。
 光太夫は、同三年一月には、帰国嘆願のためにキリル・ラックスマンとともに単身ロシア平原を横断し、ロシアの首都ペテルブルグに向かいました。帰国願いを時の女王エカテリナ二世に提出し、やっとのことで女王に謁見を許されましたが、光太夫の首都での滞在は長くなり、その間、光太夫は国賓待遇で諸所の見学を許され、時には大学に招かれて、日本の風俗についての講演なども行ったということです。
 九月に待ちに待った帰国の許可がおり、十一月首都を出発し、寛政四年一月にイルク−ツクに戻りました。その後、八月にはオホ−ツクの港に移動し、あとは日本への船出を待つばかりとなりました。日本への使節は、キリル・ラックスマンの息子のアダム・ラックスマン中尉が当たり、九月二十五日にオホ−ツクの港を出発し、十月二十一日には北海道の根室に着きました。その地での交渉のあと、光太夫と磯吉は日本側の役人に引き渡され、翌年八月には江戸へ送られました。江戸に送られた二人は取り調べられ、清水門近くの屋敷に留め置かれたと伝えられています。
 通説では、光太夫は生涯故郷へ帰ることはなかったとなっていましたが、昭和六十一年八月、帰郷していたことを示す史料が地元若松から発見されました。それらの史料によりますと、光太夫は享和二年(一八○二)四月二十二日に亀山役所へ到着し、二十三日に村役人や親類とともに南若松村に帰郷しています。遭難から約二十年後ということになります。また、史料の中には、光太夫は帰郷に際して参宮をし、さらに磯部(伊雑宮)・浅間山(朝熊山金剛証寺)・青野峯(青峯山正福寺)・丸山(庫蔵寺)などを参拝することを南若松村の村役人や親類から亀山藩役人に届け出たものも含まれています。これについて、仲見氏は「信心深い光太夫は露都ぺトログラートまでも神宮の神棚を持ち歩いていた。九死に一生を得て、そのお礼の参宮は宿願であった」と解説されていますが、十日間ばかりの日程で参宮などをしたようです。なお、光太夫の滞在先は南若松村肝煎の喜右衛門・甥の彦太夫の家でしたが、六月三日、約四十日間の滞在を終え、関地蔵参拝後、東海道を江戸に向けて出発しました。
 そして、江戸に帰った光太夫は、文政十一年(一八二八)四月十五日、七十八歳で波瀾に飛んだ人生に幕を閉じました。

参考文献

『鈴鹿市史』第二巻 昭和五十八年
仲見秀雄「大黒屋光太夫らの帰郷文書」『三重の古文化』58 三重郷土会 昭和六十二年
木崎良平「『魯斉亜国睡夢談』について」『三重県史研究』第九号 平成五年
仲見秀雄「遭難以前の大黒屋光太夫」『三重の古文化』71 三重郷土会 平成六年

光太夫と磯吉

光太夫と磯吉

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