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38 博物家・飯沼慾斎


Q 伊勢国の亀山出身で、江戸時代後期に美濃国の大垣で活躍した飯沼慾斎について、その略歴を知りたいのですが。また、彼の伊勢での活動などについても様子を聞きたい。

(平成九年五月 県内個人)
A 飯沼慾斎は、天明三年(一七八三)に伊勢国鈴鹿郡の亀山城下で出まれ、のち、美濃国大垣に移って、飯沼家の養子となります。二十三、四歳頃京都に出て医学を修行し、その頃小野蘭山に入門し本草学を修めました。帰郷してから大垣俵町にて漢方医として開業し、よく流行ったのですが、二十八歳頃江戸へ出て蘭学を学び、一年後に帰郷して蘭方医として再出発しました。
 四十五歳で、藩から蘭方医として十六年間の精勤により御目見・帯刀を許されました。五十歳で引退し慾斎と号し、慶応元年(一八六五)八十三歳で亡くなるまでの三十年間、植物学をはじめとして広範多岐にわたって関心を持ち研究しています。七十二歳で幕府の洋学所の教授方候補にあがったものの、私事により江戸行きを断念しています。また、七十四歳の頃には、植物分類学の知識、豊富な植物標本をもとに顕微鏡を使っての新しい植物分類体系を研究し、『草木図説』の草部を出版しました。さらに七十七歳頃には藩命により火薬の研究製造に任じたほか、写真術の研究も始めています。
 慾斎は、中国から輸入された『本草綱目』などから発達してきた本草学を明治時代前に『草木図説』によって科学的植物学に発展させた学者として特筆されます。
 なお、慾斎は亀山出身の博物学者ではありますが、県域外で活躍したため、三重県域内での活動記録はそう多くはありません。ただ、安政五年(一八五八)五月に、尾張嘗百社の伊藤圭介をはじめ十五名は、慾斎の喜寿を祝するため伊勢国菰野山に慾斎を招いて、数日間植物を採集し、同行の画家中野鍵太郎が着彩し「菰埜山采薬品目」など二面に仕立てたものを、万延元年(一八六〇)菰野の旅宿主人杉屋喜三郎に送ったという記録が残されています。

参考文献

松島 博『近世伊勢における本草学者の研究』 昭和四十九年
『飯沼慾斎』 飯沼慾斎生誕二百年記念事業会 昭和五十四年
『三重県史』別編(自然) 平成八年

(亀山城跡内)

(亀山城跡内)

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