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33 杉山検校の出身


Q 江戸幕府の五代将軍綱吉の侍医で、関東惣録検校になった杉山和一は、伊勢国の出身と聞いていますが、御存知ですか。わかる範囲で情報を教えてください。

(平成八年五月 県外報道機関)
A 「検校」とは、職名等、いくつかの歴史的な意味があります。古代では、ものごとを点検し誤りを正すということから、その任に当たる人を指しました。また、寺社の職名としても「検校」の用語が用いられています。そして、中世・近世では、盲人の組織「当道座」の最高の官位としての「検校」がありました。
 当道座は、平曲(琵琶を伴奏に「平家物語」を語り聞かせる語り物音楽)を奏した琵琶法師たちが形成し始めた集団ですが、近世になると、平曲を奏する者は少なくなり、三味線や鍼治・按摩のほか金貸などと多様化します。江戸時代前期では、当道座に加わった盲人は二,〇〇〇人以上に達し、座内には階層があり、惣録検校(京都に職検校)以下、検校・勾当・座頭などに分かれ、年によっては検校が一〇〇人前後に及んだこともあったようです。
 杉山和一検校は、綱吉の病気を鍼術で治療し、効があったので、宅地や禄を与えられ、関東惣録検校に任じられました。さらに、江戸で鍼治講習所を開き、多くの門下生を養成し、門下生の三島安一を通じ、杉山流鍼術を全国に広めました。
 お尋ねの杉山検校の伊勢国出身という話ですが、いくつかの歴史辞典とか戦前に原稿の書かれた『津市史』や昭和十二年に発行された『津市郷土読本』などでは、和一の父杉山権右衛門は津藩士であったとしています。和一は、幼時に失明し、江戸や京都で鍼術を修め、管鍼(実際には和一以前にもあったらしい)や松葉鍼を創案して名声があがり、将軍家に重く用いられるようになりました。しかし、活躍の舞台が江戸・京都であったこともあって、偕楽公園には昭和四十四年頌徳碑が建立されていますが、三重県にゆかりの深い人物としてはあまり取り上げられていないのが現状です。
 また、津に東・西検校町(現中央町)があり、杉山検校などが住居していたので検校町と名付けられたと伝わっていますが、『三重県の地名』では「江戸期を通じて東検校町・西検校町に杉山姓の家はなかった」と、この説には否定的です。さらに、『津市史』でも、「寛永年間の古地図にも中新町に杉山権右衛門の宅がある和一は津藩の出身」と力説しながらも、「(参考)和一の出所説の種々」として、大和の人であるとか、遠州浜松付近の農家に生まれたとか、いくつかの説をあげています。これは、寛永七年(一六三〇)の「高山様御世分限帳」(『津市史』所収)に「杉山権右衛門 十四年奉公仕候」とあり、父権右衛門が津藤堂氏に仕えたのが元和二年(一六一六)で、既に慶長十五年(一六一〇)に和一が生まれていたため、出生地に関して多く説を生じたようです。
 しかし、和一の祖父権三郎も津藤堂氏に仕えており、慶長十五年には父権右衛門も津に居たと思われます。さらに、大正十二年(一九二三)藤沢市江ノ島の杉山検校墓所から人骨の入った大甕が発見され、その蓋の板石三枚のうち中央のものの裏面に「伊勢国津生 杉山和一 即明悦殿眼叟元清権大僧都 元禄七年五月十六日」と刻まれていたことが報告されています(永峰光寿「江ノ島所在杉山検校墓所の疑問に就て」『史蹟名勝天然紀念物』第七集第五号)。津出身を裏付ける資料の一つです。
 それにしても、前述のように杉山検校が津の出身であることがあまり大きく取り扱われないのは、やはり『津市史』や『津市郷土読本』の記述の影響があるのでしょうか。今後はもっと杉山検校の関係資料を集積し、その業績を顕彰していく必要性を感じるところです。

参考文献

『津市郷土読本』 津市教育会 昭和十二年
『津市史』第三巻  昭和三十六年
『三重県の地名』 平凡社 昭和五十八年
『史蹟名勝天然紀念物』第七集第五号
永峰光寿「江ノ島所在杉山検校墓所の疑問に就て」 史蹟名勝天然紀念物保存協会 昭和七年

津市郷土読本

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