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31 福井氏流水記功碑


Q 松阪市大垣内町にある神服織機殿神社の北東の角に建てられている石碑には、昭和十二年十二月に神宮禰宜御巫清白の筆で「福井氏流水記功碑」と記されていますが、どのような内容なのか教えてください。

(平成七年十月 県内個人)
A まず、この碑文を訳してみますと、「君は通称文右衛門といい藤堂高吉の臣である。元和元年夏の役、高吉に従い手柄をたてた。のち、代官として飯野郡保津村に居住した。この地は皆肥沃にして、独り出間村の水利の便が乏しく、穀物が稔らない。君は慨然として奮起す、溝渠を掘って櫛田川の水を導く、是により灌漑充足し、耕作が自然と盛になり、村民ただ懽喜し、始めて有す蘇生の思いを。しかるに、溝路を以て神服織機殿神社の神域を妄りに侵したる、恐懼してその罪を深く感じ、自ら謹んで刀にて死す、時に慶安三年五月二十一日である。名張の徳蓮院に於いて葬る、村民は遺徳を崇め敬い、歳祀が絶えない。ここに、碑を建てるを相謀り、後世の人に伝えたい。銘して曰く、流沿霊域、湛水盈盈、瑞禾黄熟、美田豊栄、功成自尽、謝罪神明、惟仁惟義、永垂徳声」となります。
 寛永十二年(一六三五)、伊予国越智郡二万石を宛行われていた藤堂高吉は伊勢国飯野・多気郡二万石と知行替えとなり、藤堂家の一門として名張に屋敷地を与えられました。名張藤堂家の最初です。このとき、現松阪市東北部や明和町西北部の村々三九ケ村が名張藤堂家の領地とされ、慶安元年(一六四八)には、福井文右衛門が伊勢代官として飯野郡保津村(現松阪市)に居住し、この飯野・多気郡の領地を治めていました。
 この地方の用水について、保津村までは水量が多くありましたが、出間村(同)へは神服織機殿神社の西を迂回し大垣内村(同)を通って流れ、大垣内〜出間村の水路は地勢がわずかに高く、十分な水が流れてきませんでした。
 福井代官は、出間村に何としても水利の便を図る必要があると痛切に感じ、ひそかに新しい水路を引く決意をしました。ただ、新しい水路を開くにはどうしても機殿神社境内を通す必要がありました。しかし、当時は神域を侵すことは固く禁じられており、侵せばただでは済みません。交渉するなど至難のことでもありました。そこで、慶安三年五月二十日の夜、福井代官は、村民総出合いの上、「話はつけてきたから、今夜中に神社境内の東側に水路を掘って水を流せ」と命じて、水路を掘らせたというのです。その結果、深さ九〇m、幅一m、長さ二二〇mの水路が夜を徹して完成し、水が勢いよく出間村の水田へと流れ出し、村民たちの喜びは言うまでもありませんでした。
 ところが、福井代官は代官所に戻り、神域侵犯の罪を一身に背負って切腹し果ててしまったのです。 出間村では、代官福井文右衛門の義挙・遺徳を子々孫々に語り伝えていくために、碑を昭和十二年に池のほとりに建立しました。なお、この石碑は、昭和五十七年、圃場整備に関連して神社の一角に移築されました。

参考文献

『桔梗のほまれ』 福井文右衛門顕彰会 昭和五十二年
『松阪市史』第十一巻 史料編 近世(1) 昭和五十七年
『語りつぐ機殿郷土史』 松阪市立機殿公民館 平成三年

碑

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