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26 鈴鹿庄野宿の年貢負担


Q 三重県域には東海道が通っていました。その宿場に庄野宿がありますが、どのような宿場で、その宿に賦課された年貢はどのように徴収され、どれぐらいの負担があったのですか。

(平成八年九月 県内個人)
A 東海道五十三次の宿場であった庄野宿(現鈴鹿市)は、寛永元年(一六二四)に宿場町として整備され、参勤交代の途上多くの大名が宿泊したり、休憩をしたりしました。また、当時の宿場町は、街道の宿場としての機能と農村としての機能を兼ね備えていました。そのために、領主に一定の年貢を納めることが義務付けられていました。今、庄野町に残る史料により宿場町にどれぐらいの年貢の負担があったのかを検証してみましょう。
 庄野宿は、四日市代官や大津代官、美濃郡代、信楽代官と直接の支配は交代しましたが、江戸時代当初から明治維新まで幕府領でした。また、宿場としての機能は道中奉行が管轄をしていました。
 さて、庄野村に賦課された年貢の推移をみてみましょう。当時の年貢は、領主から村に対して年貢の徴収状である「免状」あるいは「免定」と呼ばれる年貢割付状が発給され、それに記載されている年貢高を村の責任で納入することになっていました。これを「村請制」といいます。庄野村に発給された最古の年貢割付状は元禄二年(一六八九)のもので、その年の年貢高は三三○石ほどでした。検地によって定められた村の生産高である村高に対する割合は二七・八%でした。
 次に年貢高がわかるのは明和六年(一七六九)で、四○七石ほどで村高の三○・五%でした。それ以降、安永年間(一七七二〜一七八一)は二二○〜三○石台で、寛政元年(一七八九)には三○○石台まで回復しました。さらに、同十二年には三九○石弱の年貢高となり、村高に対する割合も二九%となりました。その後、災害などによって、年貢高は文政年間(一八一八〜一八三〇)に再度減少し、二○○石台にまで落ち込みました。その後は徐々に回復しましたが、結局、それ以後、三○○〜三五○石台で推移し幕末を迎えています。
 さて、この年貢の徴収についてですが、当初は毎年の作柄を検分してその年の年貢高を決定する「検見取法」が実施されていました。詳しくはわかりませんが、江戸時代中期頃から、過去五〜一〇ケ年の平均年貢高をもとに検分をせず、年貢高を決定する「定免法」が採用されました。しかし、この定免法は災害年には実施されず、「検見取法」によってその年の年貢高を決定しました。
 この庄野宿の年貢負担は、まわりの藩に比べるとどうだったのでしょうか。一般的に「五公五民」とか「四公六民」と言われ、税率五〇%・四〇%の年貢負担を強いられていた中で、確かに年貢の負担だけを取ってみれば軽い負担と言えますが、それは、宿場町として年貢のほか交通輸送の負担があったことを考えると、ある程度うなずけることと思います。

参考文献

仲見秀雄「宿場の負担−東海道庄野宿の場合」『三重史学』創刊号 昭和三十四年
『鈴鹿市史』第二巻 昭和五十八年

年貢割付状(元禄二年) (鈴鹿市庄野自治会蔵)

年貢割付状(元禄二年) (鈴鹿市庄野自治会蔵)

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