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23 近江商人と八風・千草越え


Q 鈴鹿山脈の東側の伊勢は急峻で、西側の近江は山深いため、人々の交流が難しい状況でありながらも、歴史的には伊勢と近江を結ぶル─トとして、鈴鹿山脈を横断する峠越えが近江商人などに盛んに利用されています。その中で、八風越え・千種越えの概要を教えてください。

(平成九年二月 県内個人)
A 鈴鹿山脈を横断する峠は、主なものとして、北から鞍掛峠・治田峠・石榑峠・八風峠・根ノ平峠・安楽峠・鈴鹿峠などがあります。
 鈴鹿峠は、他の峠よりはるかに低いため、人々の往来が多かったのですが、室町時代頃から、山賊の出没、合戦に伴う街道の荒廃、関所の設置と通行税の徴収などにより減少しました。そして、道は険しくても関所が少ない他の峠道が利用されるようになったようです。
 中でも、菰野町千種から根ノ平峠を越え現滋賀県永源寺町甲津畑までの「千種越え」と菰野町田光から八風峠を越え永源寺町杠葉尾までの「八風越え」とが多く利用されました。「千種越え」は、近江と四日市、「八風越え」は近江と桑名を結ぶ重要な通商路ですが、近江の保内商人(近江蒲生郡得珍保内の今堀・蛇溝・中野・今在家などの諸郷の商人で、鈴鹿山脈を越える山越商人)が独占していたようです。約一,〇〇〇点にも及ぶ滋賀県八日市市の「今堀日吉神社文書」中の永禄二・三年(一五五九・六〇)の「保内商人申状案」によると、保内商人が八風・千種越えで、千草氏から両峠の流通独占権を認められ、その見返りとして役銭を支払っていたことがわかります。
 そして、彼等は、近江から八風・千種越えで伊勢に来て、東海地方の産物(主に麻の苧・紙・木綿・土の物・塩・曲物・油草・若布・鳥類・海苔類・荒布・魚類・伊勢布など)を仕入れ、近江や京都で販売しました。当時は、品物の運搬や警護のために大勢が隊列を組んで、あたかも砂漠を渡るキャラバンのような団体行動をとる必要がありました。そのため、彼等の下には、「足子」という、近江商人に年貢を納め伊勢行商に際して品物運搬や商売の下請けなどの権利を与えられた現地駐在の小商人が多数いました。十六世紀中頃、田光に杉谷屋・小五郎・次郎左衛門という三軒の「足子」のいたこともわかっています。
 商人のほかには、「千種越え」では、文明五年(一四三七)の蓮如上人、弘治二年(一五五六)の公家山科言継、元亀元年(一五七〇)の織田信長などがあり、「八風越え」では、大永六年(一五二六)の連歌師宗長、天文二年(一五三三)の山科言継、弘治三年(一五五七)の六角義賢、永禄二年(一五五九)の織田信長などが記録として残っています。
 このように、多くの人々の通行で賑わった峠越えも、特に東海道や中仙道の宿駅の整備、信長による安土城下での楽市の開設と山越商人の禁止などによって衰退し、江戸時代初期の頃には歴史の表舞台から遠ざかってしまい、その後は、北伊勢と近江を人々の生活道の役割を果すのみとなりました。

参考文献

三重県教育委員会『美濃街道・濃州道・八風道・菰野道・巡見道・巡礼道・鈴鹿の峠道』昭和六十年
『菰野町史』上巻 昭和六十二年

峠越道概略図

峠越道概略図

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