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21 鳥羽藩内藤氏の年貢徴収


Q 鳥羽藩の内藤家の年貢徴収はどのようにしていたのですか。また、年貢負担の変遷はどうだったのですか。

(平成九年一月 県内個人)
A 内藤氏は、寛永十年(一六三三)から延宝八年(一六八〇)まで鳥羽藩三万五千石を領有していました。内藤氏がどのような年貢賦課の政策を行っていたのか、年貢を徴収する際に発給された年貢割付状から、その様子を見てみましょう。
 江戸時代は、兵農分離により、武士は城下町、農民は農村に居住することが原則でしたので、当然のことながら、年貢徴収や各村の自治は、村役人と呼ばれる庄屋などが中心となって行っていました。これらの制度を「村請制」といいます。年貢徴収については、領主から各村に対して年貢割付状と呼ばれる年貢徴収状が発給され、その高を村人が相談の上、各人に割付けていました。
 内藤氏の年貢割付状は簡単な様式のもので、その村が検地されたときに定められた「村高」が基準になり、それに一定の割合を掛けてその年の年貢高を算出していました。寛永十年の松尾村(現鳥羽市)では村高四一四石四斗八升五合からその年の不作分二斗四升九合を差し引いた残高四一四石二斗三升六合に六一%の年貢率が賦課されていました。それ以降、付表のように年貢率は推移しています。
 毎年変動があり、徐々に年貢率は上昇しますが、承応年間(一六五二〜一六五五)を境にして減少傾向にあります。この時期は毎年の作柄を見分して、年貢高や年貢率を決める「検見取法」が実施されており、それが年貢率の変動につながっていたと考えられます。年貢率は各村々の土地柄の相違により異なっていましたが、年貢の徴収方法は「検見取法」でした。
 ところが、延宝五年(一六七七)になり、年貢の徴収方法が変更されました。それは「定免」という方法で、寛文三年(一六六三)から延宝四年までの一五ケ年の年貢を平均して春に年貢高や年貢率を決めたものでした。これは年貢が春に定められたという点で江戸時代中期から幕領等で実施された「定免法」とは異なるものです。幕領の「定免法」の場合、年貢率は過去の平均を勘案して年貢率が決定されましたが、その時期は秋でした。この時期が鳥羽藩とは異なります。鳥羽藩の場合は年貢割付状に「定免」の文言が見られますが、この「定免」の意味は、むしろ西国の藩領で採用されていた「土免法(どめんほう)」と呼ばれる春に定められた年貢徴収法に近いものだったと言えます。この徴収法は他村でも行われており、鳥羽藩の年貢政策として行われたと考えられます。
 鳥羽藩の「定免」は延宝五年より天和元年(一六八一)まで五ケ年行われる予定でしたが、内藤氏の改易により数年間実施されただけでした。

参考文献

松本茂一『鳥羽藩政下の農村』 新人物往来社 昭和五十九年
『藩史大事典』第四巻 雄山閣出版 昭和六十四年
『鳥羽市史』上巻 平成三年

付表

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