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17 山田奉行所とその所在地


Q 江戸時代に伊勢国に設置された山田奉行所は、どのような仕事をした役所ですか。また、その役所は、どのあたりに置かれていたのですか。

(平成九年十一月 県内個人)
A 山田奉行所は、江戸時代に幕府が伊勢国に設置した遠国(おんごく)奉行の一つです。遠国奉行とは、江戸を離れて幕府直轄の要地に配置された奉行を中央の奉行と区別するため呼びならわしたもので、職制ではありませんが、大坂・伏見・京都・駿府などの町奉行や長崎・山田・日光・奈良・堺・佐渡・下田・浦賀・函館・新潟などの遠隔地に配置された諸奉行をいいます。
 山田奉行所の任務は、伊勢神宮の警備・遷宮の監督・伊勢国幕府領の支配・鳥羽港の監視などでしたが、奉行所の創始については種々議論のあるところです。徳川家康が実権を掌握した慶長八年(一六〇三)十一月に長野内蔵允友秀を奉行に任命したときからと、よく言われますが、この長野内蔵允友秀や同じく奉行を務めた日向半兵衛政成は北伊勢の調停などにもその名が見え、当初は「伊勢国奉行」としての性格が強かったのではないかという学説があります。また、寛永八年(一六三一)の花房志摩守幸次の赴任を独立した山田奉行所の設置と見る説もあります。
 奉行所の場所について、最初は、宮川の西、海岸沿いの度会郡有滝村(現伊勢市)にあった既設の有滝役所を本拠としていたようです。『三重の近世城郭』では、地元で「蔵屋敷」とか「広山(城山・殿前)」とか呼ばれる場所がその有滝役所跡に関係するのではないかとしていますが、決定には更に検討が必要です。
 また、宮川の東、山田地内にも役所跡とか屋敷跡とか言われる場所が三ケ所あり、江戸時代後期の地誌『勢陽五鈴遺響』にもそれぞれ記述が見られます。いわゆる曽祢高柳役所(現曽根一丁目)・下中之郷役所(宮町一丁目)・一本木役所(吹上二丁目)で、これらは「公事裁許場」と考えられています。すなわち、有滝村から奉行たちが出張し裁断・処理に当たった役所です。設置時期も曽祢高柳役所が最初で、一本木役所は本拠が有滝村から小林村(現伊勢市御薗町)に移った寛永十二年以降も使用していたと伝えられています。
 小林の役所は、宮川右岸の下流にあり、海運・造船の拠点であった大湊に近く、背後の伊勢神宮を警護する上でも格好の地で、そこに移転したと考えられます。小林の屋敷図・建物配置図などの絵図は、県庁や神宮文庫にいくつか残されており、概要を知ることができますが、弘化二年(一八四五)の火災に伴う再建後の建物配置の図が多いようです。
 そして、江戸幕府の崩壊とともに、慶応四年(一八六八)七月、ここに度会府が設置され、長く続いた山田奉行所も廃止されてしまいました。その間、何代かにわたって奉行が赴任し、正徳二年(一七一二)〜六年(一七一六)の四年間には大岡能登守(のち越前守)忠相が奉行として来ていたことは有名な話です。

参考文献

『宇治山田市史』上巻 昭和四年
『三重の近世城郭』 三重県教育委員会 昭和五十九年
『御薗村史』 平成元年
『三重県史』資料編(近世1) 平成五年
橋本石州『伊勢山田奉行沿革史』 昭和五十二年

山田奉行所跡 1 蔵屋敷 2 広山 3 中之郷 4 曽祢高柳 5 一本木 6 小林

山田奉行所跡 1 蔵屋敷 2 広山 3 中之郷 4 曽祢高柳 5 一本木 6 小林

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