トップページ > 運営ホームページ  > 県史Q&A > 16 林城主とその城跡

16 林城主とその城跡


Q 戦国期から江戸時代初頭には現在の安芸郡芸濃町林に林城があったということですが、どのようなものだったのしょう。その城主とか城跡について、その概略を教えてください。

(平成八年十一月 県外個人)
A 林城については、江戸時代前期の地誌『勢陽雑記』に「天正十二年(一五八四)頃より織田上野介信兼息民部少輔、領知一万石にて此所に主たり」とあり、十六世紀末には織田信長の弟信包(兼)の長男信重が林周辺を領していたといいます。また、『寛政重修諸家譜』でも「信重 豊臣太閤につかへ一万石の地を領し、のち東照宮につかへたてまつる」と記され、この一万石(『断家譜』では「仕豊臣秀吉公、勢州林城賜三万石」とし、ほかに「文禄三年 一万六千石」という記述もある)が林周辺というわけです。そして、関ケ原の戦いでは東軍に属し、家康からも本領安堵を受けたようですが、元和元年(一六一五)に父信包の遺領を弟信則が継承したことに不満を持ったことから所領を没収され、流浪の身となってしまいました。これが林城の最後です。
 信重が林城主のときの治績については、あまりわかりませんが、『三重県の地名』(平凡社 昭和五十八年)の「奥之井」項には一身田(現津市)下津家文書の「奥之井溝替ニ付口上書并村方旧記」が引用され、「林升」が存在したことや文禄五年(一五九六)には城主信重が乗り出し用水の調停を行っていることなどが記載されています。また、慶長十一年(一六〇六)には、織田民部の署名で伝馬駄賃の「定」を加太村(現関町)に出しています(『三国地誌』所収)。これは、現在確認できる林城主信重の唯一の文書ですが、信重は林城を居城とし、周辺部かなり広い範囲を領有していたと考えられます。
 このように、信重のときは少しでも手掛かりとなる史料が見られます。しかし、信重以前については全く文書等の史料が確認できません。参考として後世の編纂物の記述をここに掲げますが、根拠がはっきりせず、そのままというわけにはいきません。江戸時代後期の『勢陽五鈴遺響』では、「林城──明応年中(一四九二〜一五〇一)長野工藤氏ノ一族林中守祐行住ス」とし、天正二年に滝川一益や雲林院出羽守などの攻撃、同十一年に豊臣秀吉らの攻撃があって、林氏は秀吉の幕下となり、但馬で小禄を受け、その後、信重が林城に入ったというものです。また、明治二十二年(一八八九)の『伊勢名勝誌』では「天文七年(一五三八)関氏ノ族鹿伏兎定長ノ二子定保城ヲ築キ之ニ居ル林氏ヲ冒ス」という説をあげ、但馬に封されたのも定保の子保春としています。そのほかにも、いくつかの説があり、違った記述もあります。
 次に、城跡についても、なかなか確定できません。昭和五十二年の『三重の中世城館』・昭和五十五年の『日本城郭大系10』・昭和六十一年の『芸濃町史』には、それぞれ見解に差があります。『中世城館』では「林殿町城」と「林城山城」をあげ、前者は祐行が築き、後者は定保が築いたものとしています。しかし、『城郭大系』は「林城屋敷城」のみをあげ、先の「林城山城」の場所は「しろやま」と呼ばず、全く城と関係ないと指摘しています。さらに、『芸濃町史』では、『伊勢名勝誌』の「林城址林村ニ二処アリ」の記述に従い、祐行がいたという「林北浦城」と、のちに定保が築いたという「林城屋敷城」の二ケ所を掲げています。二ケ所とも土塁等の遺構はないようですが、「林北浦城」は地元で「城(じょう)」と呼んでいる丘陵を推定しています。
 いずれにしても、わからないことが多く、城主に関わる史料の発見や城跡についての調査などが進むことが期待されるところです。

参考文献

山中為綱『勢陽雑記』 三重県郷土資料刊行会翻刻 昭和四十三年
宮内黙蔵『伊勢名勝誌』明治二十二年 三重県郷土資料刊行会復刻 昭和四十九年
安岡親毅『勢陽五鈴遺響』2 三重県郷土資料刊行会翻刻 昭和五十一年

林城屋敷城遠景(北西から)

林城屋敷城遠景(北西から)

トップページへ戻る このページの先頭へ戻る