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14 九鬼家と家臣生熊氏の資料


Q 安土・桃山時代の堺の茶人、今井宗久の子孫の一人を生熊氏といい、鳥羽城主九鬼氏の家臣であったということなのですが、九鬼家と生熊氏の資料について教えてください。

(平成八年三月 県内個人)
A 志摩地方を統一し、水軍を指揮して信長・秀吉に仕えた九鬼嘉隆は、天正六年(一五七八)に鳥羽を本拠に志摩・伊勢で三万五千石の知行地を与えられました。次いで、慶長二年(一五九七)、嘉隆の隠居により子守隆が三万石を継承しました。そして、関ケ原の戦いでは親子がそれぞれ東軍・西軍に分かれ戦い、家康に認められた守隆は、九年に関ケ原合戦の功績による二万石の加増と嘉隆の隠居料五千石を合わせて五万五千石を領することになりました。さらに、元和元年(一六一五)には大坂の陣の功績などによって一千石の加増を受けて、都合五万六千石の大名となったのです。
 そうした九鬼家でありましたが、守隆が病気となり、寛永九年(一六三二)九月の逝去に伴って、相続問題が起こりました。それは、長男良隆があとを継ぐところを次男貞隆とともに病弱のため相続を辞し、五男久隆を良隆の養子にしてあとを継がすことにしたため、三男隆季の方から不満が出たというものです。家中を二分する騒動となりました。翌寛永十年、幕府の裁可によって、五万六千石は久隆と隆季の二人に分封することで決着しました。久隆は三万六千石で摂津国有馬郡三田に、隆季は二万石で丹波国氷上郡綾部に移され、家臣もそれぞれ分かれました。天下にその名を知らしめた九鬼水軍も、三田と綾部の山里に二分されてしまったのです。その後、常陸国真壁から譜代の内藤忠重が鳥羽に入り、志摩・伊勢・三河や常陸で三万五千石を領しました。
 それでは、お問い合わせの生熊氏について、見てみましょう。『三重県史』資料編(近世1)では、「鳥羽藩九鬼家中分限帳写」(九鬼文書)「九鬼守隆公御代」の項に「一 百五拾石 生熊佐右衛門」とあり、また、寛永九年六月廿六日付けの「九鬼守隆奉行人連署漁業年貢皆済状」(大王町役場船越支所文書)にも、奉行人の一人として「生熊佐右衛門長勝」の名が見えます。
 次に、三田市郷土文化研究会編『三田絵図と家中録』に収録の「九鬼大和守久隆三田江御国替之節知行高之覚」を見てみますと、「無役 百五拾石 生間佐右衛門」という記載があります。同じく『同書』収録の「志州鳥羽城 九鬼家分限帳」にも、生熊でなく生間と記されていますので、おそらく、同一人物であろうと思われます。しかし、寛文十一年(一九七一)の分限帳である「九鬼長門守隆昌 摂津三田国替後 家臣之役付高付」では、生間氏の名は見られず、久隆の次の隆昌の代のときには、何らかの理由で家来ではなくなっています。
 なお、問い合わせにある生熊氏が、堺の茶人・今井宗久の子孫の一人かどうかについては、関連資料もなく、わかりません。

参考文献

『鳥羽市史』上巻 平成三年
三田市郷土文化研究会高田義久『三田絵図と家中録』
三田市教育委員会 平成三年
『三重県史』資料編(近世1) 平成五年

九鬼守隆奉行人連署漁業年貢皆済状(大王町役場船越支所蔵)

九鬼守隆奉行人連署漁業年貢皆済状(大王町役場船越支所蔵)

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