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13 俳諧の始祖、荒木田守武


Q 三重県と俳句のつながりをたどってみると、江戸時代の松尾芭蕉に先んじて中世俳諧で有名な荒木田守武という人がいたようですが、この人の足跡について教えてください。

(平成八年十月 行政機関)
A 荒木田(薗田)守武は、荒木田という姓が示すとおり、内宮神主家に生まれました。文明五年(一四七三)のことです。十五歳のとき、正員禰宜に加わり、以後、天文十年(一五四一)四月に一禰宜となり、同十八年八月、七十七歳で没するまで長く禰宜職を務めました。
 この長い在任期間中には、禰宜として多くの業務を果たしています。『三重県史』資料編(中世1上)にも、守武が一禰宜のとき書き留めた記録(『神宮引付』)や守武の関わった様々な文書の写しを収録おり、これらを詳しく見てみると、守武の活動の一端をうかがうことができます。例えば、天文十一年では、内宮仮殿遷宮の早期実現に尽力したり、炎天続きのため祈祷し、「民間之愁」を休めるなどの史料が含まれています。
 守武は、禰宜職を務める一方、連歌などもよくたしなみ、その才能には優れたものがありました。十三歳のとき、宗祇の連歌集『老葉』を筆写したり、それから十年後には、兄の守晨とともに、準勅撰の連歌集『新撰菟玖波集』に一句入集を果たしたりしました。
 連歌全盛のこの頃、守武の名を高めたのは、四年がかりの推稿の末に仕上げた『守武千句』(『俳諧之連歌独吟千句』・『独吟千句』・『飛梅千句』ともいう)の達成(天文九年完成)です。そこから一句あげてみます。
   青柳の まゆかく きしのひたひかな
 この句は、川岸に柳が芽ぶく様子を、岸という額に柳眉(美しい女性の細い眉)をかくと見立てたものです。まだ和歌風で、この『守武千句』の作業が連歌の余技であった俳諧を独立の文芸の境地へと高め、俳諧の形態を確立する嚆矢となったようです。そうしたことから、守武は、『新撰犬筑波集』の撰者の山崎宗鑑とともに「俳諧の始祖」とされています。
 この『守武千句』以外にも多くの著作物が知られており、『国書総目録 著者別索引』(岩波書店昭和五十一年)によれば、二一点あがっています。禰宜職に関連するものを別にすると、一七点が文学です。一夜で百首を詠みあげた『世中百首』、連歌師宗長の訃報を聞き日を置かずに追悼の連歌を詠んだ『宗長追善千句』、最晩年の独吟『秋津州千句』などがあります。
 そして、守武の俳諧に対する熱意と文学愛好者たちとの交遊が、後年に「伊勢風」と呼ばれる俳諧の作風の原点となったのです。

参考文献

大岡 信『新 折々のうた1』 岩波新書 平成六年
『三重県史』資料編(中世1 上) 平成九年

守武句碑(伊勢市・神宮会館)

守武句碑(伊勢市・神宮会館)

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