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度会町 こうこうぜんきち
孝行善吉
おとうは働き過ぎで亡くなり、おかあは病気。
それでも「心配すんな」と一人で一生懸命働いた孝行息子・善吉のお話です。

お話を聞く

 むかし、度会町に善吉(ぜんきち)という、村でも評判(ひょうばん)の孝行息子(こうこうむすこ)が住んでおったそうな。
 善吉は、父親の名は中西伊三郎(なかにしいざぶろう)、母親はきんというてな、寛政(かんせい)四年に下久具(しもくぐ)で生まれたんや。「孝行善吉(こうこうぜんきち)」と言うたら、このあたりの者はみんな知っとる、それくらい名を知られた人やったんや。
 善吉の家は、代々お百姓(ひゃくしょう)さんとして暮(く)らしておったんやけど、おとうが病気がちなうえに、凶作(きょうさく)が続いたもんで年貢米(ねんぐまい)を納めることがどうしてもできなくなってしもてなぁ、とうとうおとうが中間奉公(ちゅうげんほうこう)するため善吉とおかあを置いて江戸(えど)にたってしまったんや。
 おとうのいなくなった家は、善吉とおかあが二人っきりで守っとったが、病気がちやったおとうは働きすぎがたたって、やがて死んでしまったんやと。そのうえおかあも病の床(とこ)につくようになってな、善吉の家はますます苦しくなってしもたんや。
用語説明
寛政(かんせい)
1789年1月25日〜1801年2月5日。(江戸時代)

下久具(しもくぐ)
度会町の地名。宮川とその支流一之瀬川の合流点付近に位置する。



 そのころ、善吉の年貢米は「田丸領下久具持高六石二斗三升五合三勺(たまるりょうしもくぐもちだかろっかくにとさんじょうごごうさんじゃく)」で、これはたいへんな負担(ふたん)であったそうな。
 そやけど善吉は、
「おかあ、心配すんな。わしがなんとかしたるわ」
と言うて、おかあの看病(かんびょう)をしながら田畑を耕(たがや)し、薪(まき)ごしらえなどの仕事に丹精(たんせい)し、ほかの人の倍も三倍も働(はたら)いたそうな。 その働きぶりと言うたら、朝早(はよ)うから晩(ばん)おそうまで、寝(ね)るひまがないほどやった。
 その一生懸命(いっしょうけんめい)の働きぶりに村の人たちは
「善吉はほんまに働きもんや」
「立派(りっぱ)な孝行息子や」
と、感心したそうな。
 
「田丸領下久具持高六石二斗三升五合三勺」
田丸領下久具の年貢米(ねんぐまい)の容量。「石」は約180リットル。「斗(と)」は約18リットル。「升(しょう)」は約1.8リットル。「合」は約0.18リットル。「勺(しゃく)」は約0.018リットル。



   
 また、畑仕事や山仕事の間には、草履(ぞうり)やふごを作り、これを売りに行って米にかえたりして、年貢米だけは毎年かかさずきっちりと納(おさ)めておったそうな。
 やがてこのような善吉の行いが近隣(きんりん)の村々にひろがり、ついには、紀州(きしゅう)の殿様(とのさま)の耳に入ることになったんやそうな。
 紀州公(きしゅうこう)は、善吉の行いにたいそう感激(かんげき)され、
「なんともりっぱな若者ではないか」
と、たくさんのほうびを授(さず)け、善吉をりっぱな行いをした孝行者としてたたえたという話じゃ。
 これは文政(ぶんせい)年間の話やが、善吉のことは孝行息子の話、「孝子善吉の伝」としてこのあたりに伝わっとって、この話を聞きながら育った人もたくさんおるそうな。
 
ふご
竹・わらで編(あ)んだ籠(かご)の総称(そうしょう)。


文政(ぶんせい)
1818年4月22日〜1830年12月10日。(江戸時代)



読み手:橋村 ヒサ枝さん