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尾鷲市 やきやまのひれん
八鬼山の悲恋
「ヤサホラエ〜」の節回しで知られる尾鷲節に、
「ままになるなら、あの八鬼山を鍬でならして通わせる」という一節があります。
このお話は、この一節にまつわるお話です。

お話を聞く

 あんな、むかし、全国から伊勢神宮(いせじんぐう)へお参りを果(は)たした巡礼(じゅんれい)や旅人たちは、そのまま熊野詣(くまのもう)でや西国(さいごく)三十三ヵ所の巡礼へと旅立つ者もようけおってなあ。
 熊野三山へ続く街道(かいどう)は険(けわ)しい山道ばかりやって、その一番の難所(なんしょ)が、八鬼山(やきやま)やったんじゃ。急な山道がどこまでもどこまでも続くもんで、たくさんの巡礼がここで力つき、行き倒(だお)れたほんまに険しい山で、狼(おおかみ)や山賊(さんぞく)もまあ、ようけおって、道行く人々をふるえあがらせとった。
用語説明
熊野詣で
熊野三山(熊野本宮大社〈ほんぐうたいしゃ〉・熊野速玉大社〈くまのはやだまたいしゃ〉・熊野那智大社(くまのなちたいしゃ)へ参ること。

西国三十三ヵ所巡礼
西国(主に近畿地方)の三十三ヵ所の観音に巡礼すること。

八鬼山
標高(ひょうこう)627メートル。海辺から一気に登るため急勾配(きゅうこうばい)の石畳道(いしだたみみち)が続く。




 その八鬼山の北のふもとにある矢浜(やのはま)村に、今から百数十年前かいな、高芝(たかしば)佐衛門之丞(さえもんのじょう)という腕(うで)のよい宮大工の棟梁(とうりょう)がおったんさ。
 あるときな、この高芝棟梁は弟子を十人つれて、八鬼山をこえた海辺の三木里(みきさと)村へ貴船(きふね)神社の普請(ふしん)に行ったんじゃい。
そのころは、三木里など八鬼山より南の村々は、熊野三山の勢力(せいりょく)が強うて、お寺や神社の普請のときは、新宮(しんぐう)から宮大工がいよったんさ。三木里の貴船神社の普請も、本来やったら新宮の宮大工に頼(たの)むとこやったんやろけど、八鬼山の北の矢浜に、腕のよい棟梁がおるというんで、三木里村の庄屋(しょうや)がこれまでのしきたりを破って頼んだんやと言うわい。
 それだけに、高芝棟梁は毎朝冷水で身を清め、精を込めて仕事に励(はげ)んどったんさ。
 ところがえらいことがおこったんじゃがな、弟子の一人の喜久八(きくはち)が、三木里村の庄屋の娘お柳(りゅう)と、深い恋仲(こいなか)になってしもて、喜久八はまだ修行(しゅぎょう)中の十八、お柳は十七、修行中の色恋は昔からご法度(はっと)、まして神聖(しんせい)な宮普請のあいだは、絶対(ぜったい)にあかん。それやのに若い二人は、棟梁や兄弟子の眼をかすめながら、あいびきを重ねとった。
 あと一ヵ月で宮普請が完成するというある晩、喜久八が三木里海岸の松林であいびきをしてから大工小屋に帰ってくると、怒りに燃えた棟梁が待ちかまえとったんじゃ。
喜久八、お前…。「大事な大事な宮普請じゃよって、みんなこうして女房(にょうぼう)とも別居(べっきょ)し、身を清めて務(つと)めておるのに、お前はなにをしとるんだ。よりにもよって、それも、わしらを見こ込んで声をかけてくださった庄屋さまの娘に手を出すとは」
 事の重大さを初めて知った喜久八は真っ青になり、手をついてわび続けたんやけど、棟梁は許(ゆる)すかい。喜久八の左の小指を切り落として庄屋へ行って、弟子の不義理をわびたんさ。
 
矢浜村
尾鷲市矢浜。市街(しがい)の南郊(なんこう)に位置(いち)し八鬼山の登り口にあたる。

宮大工
神社・寺院・宮殿(きゅうでん)の建築(けんちく)を専門(せんもん)とする大工。

棟梁
大工のかしら。

普請
建築工事。

法度(はっと)
禁止。



   
 翌朝(よくあさ)、喜久八は大工小屋を出され、一人八鬼山をこえて矢浜村へ帰ることになって。棟梁は喜久八に厳(きび)しいけじめをつけさせたんやけど、喜久八の後姿を見送りながら、険しい八鬼山を見すえ、
「ままになるならあの八鬼山を鍬(くわ)でならして通わせる」
と歌(うと)たんやって。
 もしも自由になるんやったら、あの険しい八鬼山を鍬で平にならして、二人を通わせ、添(そ)いとげさせるものを、という棟梁の本心が込められた歌で、険しい八鬼山のように自由にならん、この世の義理によって引きさかれた恋をなげき、悲しんだこの歌は、尾鷲節(おわせぶし)として今日まで歌いつがれとるんさ。
 
尾鷲節
漁師(りょうし)の踊り唄(おどりうた)に由来(ゆらい)する尾鷲の民謡(みんよう)。



読み手:澤田 美裕子さん