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紀宝町 うみからきたかんのんさま
海から来た観音さま
紀宝町の井田観音は、「厄落とし」の観音として有名で、
戦前は多くの巡礼者で賑わったそうです。
この観音様には、海から現れたという不思議な話が伝えられています。

お話を聞く

 今からおよそ七五〇年もむかしのことじゃがの。ここ熊野(くまの)の国、井田(いだ)村の下(さが)り場に、西忠次(にしちゅうじ)というさむらいが住んでおったんじゃ。
 忠次は、それはそれは勇気があっての。とっても心のやさしい観音信仰(かんのんしんこう)の厚(あつ)い人だったのじゃ。それで井田村の人だけでなく、七里御浜(しちりみはま)ぞいの村の人たちからも「西殿(にしどの)、西殿」と呼ばれての、たいへんしたわれていたんじゃ。
 ある夜のことじゃがの。寝(ね)ていた忠次は、海の方で自分の名を呼んでいる観音さまの姿(すがた)を夢で見たんじゃ。
 不思議なことに、二日目の晩(ばん)もまた同じ観音さまの姿を夢で見たんじゃ。
 そこで忠次は、観音さまにお願いしたんじゃ。
「もう一度、お姿を見せてください」
 と。するとどうじゃ。三日目の晩のことじゃがの。夢の中にあらわれた観音さまが、光(ひか)り輝(かがや)くお姿で忠次のまくらもとに立たれたんじゃ。
 おどろく忠次に、観音さまは次のようにお告げになったんじゃと。
 「お前は立派(りっぱ)なさむらいじゃ。村人のために悪いやつを追いはらい、貧しい人びとを助けたり、苦しんでいる人びとを救っておる。その心に感じるものがあるので、西方浄土(さいほうじょうど)より私(わたくし)がお前の家に行き、お前とお前の家族を守ることにした。お前にこの私を大切にまつる心があるなら、今すぐに浜(はま)に出向き、私を迎(むか)えよ。まもなく浜にたどりつくであろう」
 そう言いおわると、姿を消してしまわれたんじゃ。
 忠次はびっくりしてとび起き、さっそくに身を清め、新しい衣服を身につけてな。浜へかけつけたんじゃ。
用語説明
熊野の国
今の三重県南部、和歌山県南部、奈良県南部。

井田村
紀宝町井田。

観音信仰
観世音菩薩(かんぜおんぼさつ)が、長者や僧侶などさまざまな姿となって現われ、民を救う、という信仰。

西方浄土
西の方にあるという極楽浄土(ごくらくじょうど)。



 七里御浜の中でも井田の浜はな、なぎさが左右に広がる石浜で、その前は、さえぎるものはなに一つない大海原じゃ。
 忠次はなぎさに立って、はるか彼方(かなた)の海をながめていると、沖の方から光り輝く観音さまが、忠次の立っている場所へすうっと流れよってきてな、思わず手を差しだした忠次の腕(うで)の中に、すっぽりおさまったんじゃ。
   



   
 海から来た観音さまをだきかかえて家にもどった忠次は、この観音さまを家の中におまつりしてな、一家と村人の守り仏としたんじゃ。
 この観音さまは霊験(れいげん)あらたかでな、お参りすれば、病気や災害から守ってくれるということが、だんだんと人びとの間に広がって行ってな、井田の人はもちろんのこと、近くの村人をはじめ、熊野三山へお参りする巡礼(じゅんれい)さんも、お参りしていくようになったんじゃ。
 観音さまが、忠次によって海から迎えられてからの、四六〇年ほどたった江戸時代の中ごろ、西忠三郎(ちゅうざぶろう)の代になるとな。お参りする人がうんと増(ふ)えてな。屋敷内(やしきない)が混雑(こんざつ)するようになったんじゃ。
 そやもんで、村の人がより集まって相談してな、みんなでお金を出し合って、丘(おか)の上に小さなお堂(どう)を建てたんじゃ。
 それからというものの、毎年、三月初めの午(うま)の日を「初午(はつうま)」と言うてな、大きなお祭(まつ)りをするようになったんじゃ。
 このお祭りには、近くの村の人や奥熊野の人も大勢見えてな、お堂の前や坂道は、人と巡礼と出店でうめつくされたそうな。今も巡礼坂という名が残っとるんじゃ。
 それから後々のことじゃがの。お盆前(ぼんまえ)の八月九日を「観音さま」と言うてな、観音さまにお参りして、先祖(せんぞ)の霊(れい)をなぐさめ、供養(くよう)のための盆踊(おど)りを盛大にするようになったんじゃ。井田の盆踊りは、「あら やっさのせ」、「甚句(じんく)」、「まるくならんせ」、「いろはのくどき」、「しりむけ」、「ほうきおどり」、「伊勢音頭」などたくさんあるんじゃ。
 海から来た観音さまは、今日も小さなお堂の中で、青い海を見ながら静かにお立ちになって、私たちを見守っておられる。
 
熊野三山
熊野本宮大社(くまのほんぐうたいしゃ/和歌山県本宮町)、熊野速玉大社(くまほはやたまたいしゃ/同新宮市)、熊野那智大社(くまのなちたいしゃ/同那智勝浦町)を合わせた呼称(こしょう)。

奥熊野
熊野の中でも特に三重県と和歌山県の境を流れる熊野川より北のあたりを言う

井田観音



読み手:久保 正光さん