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木曽岬町 きつねのてんきょ
狐の転居
昔、木曽岬に住んでいた狐たちが、度重なる水害に嫌気がさしたのか、
ある時引越しを思いつきました。
狐たちはどうやって海を渡ったのでしょうか。

お話を聞く

 木曽岬(きそさき)は、木曽川と伊勢湾とのあいだを干拓(かんたく)してできた土地でな。木曽川が洪水(こうずい)になるたびに土砂(どしゃ)が運ばれ、河口にたまって、ちょっとした浅瀬(あさせ)ができる。そこにまた、年がたてばよし草が生える。そういうところに、寛永(かんえい)年間のころから干拓をしていって、二十六の新田をつぎつぎとつくっていったんや。
 新田をつくるたびに、洪水から生命や財産を守るために堤防(ていぼう)を築いてな。その堤防を強くするために、松や竹や木をたくさん植えたもんで、むかしはあちこちに松林や竹やぶ、雑木林があったんや。それらは大切な林やったんやけど、日中でもうす暗いようなところもたくさんあってな。子どもらにとっては、家に帰るのがちょっと遅(おそ)なって、暗くなってくると、すごい怖(こわ)いところやった。そういうところには、むかしは狐(きつね)も狸(たぬき)もすんどって、化かされた、という話もようあったんや。
用語説明
寛永(かんえい)
1624年2月30日〜1644年12月15日。江戸時代



 そんな時分の話やけどな、ある夜のこと、船頭さんの家に、水もしたたるような美しい人が訪(たず)ねてきてな、
「明晩(みょうばん)、大勢で出かけたいので、船賃(ふなちん)」は十分お支払(しはら)いしますから、船を出してくださいまし」
と頼んでな。船頭さんは快う引き受けたんやて。
 あくる晩は、わずかばかり霧が出たけど静かなええ晩やった。船頭さんが待っとったら、昨日の美しい人を先頭に、老人やら男の人やら女の人、子どもにいたるまで大勢がやってきて、船に乗りこんだんやて。ほんでな、
「舳先(へさき)の方に灯りが見えますので、その灯(あか)りを目当てに船を漕(こ)いでくださいまし」
と言うたんやて。船頭さんがその方向に目を向けると、確かに霧(きり)の中にうっすらと灯りが見える。その灯りをめざして船頭さんは棹(さお)をさし、しばらくして櫓(ろ)を漕ぎ始めたんや。
   



   
 漕いでからどれくらいたったやろか。えらいこと漕いだけど、どこまで行ってもまだ着かん。灯りは出発したときと同じくらい小さいままやった。
 それもそのはず。その灯りは、船の客が舳先に竿(さお)を立てて、その先にかがり火を付けとったんや。自分が乗った船の舳先にある灯りをめざして漕いどるんやから、考えてみたら着かんはずやわな。
(えらい遠いな。ほやけど船賃もはずんでもろたし、がんばらな)
 船頭さんは汗(あせ)をかきながらひと晩(ばん)中漕いで、夜明け近くなったころ、ようやく陸にぶつかった。そのとたん、大勢の客が狐の姿に変わってな。陸に飛び降(お)りていっせいに駆け上がったんやて。その地は、当時「ツタゴオリ」と呼(よ)ばれていて、今の知多半島のどこかやろうといわれとる。
 ぼうぜんと見送とった船頭さんが、ふと我(われ)に返って船賃を確かめたら、木の葉が置いてあったんやわ。それから、木曽岬には、狐がいなくなったということや。
 狐がなんで引っ越しをしたんかは、わからんけど、もしかしたら、よう水の入るところやから逃げ出したんかもしれん。江戸(えど)時代には、村全部が水浸(みずびた)しになったことが何べんもあって、そのたびに堤防(ていぼう)をつくり直しとったから、動物もえらい目にあっとったでな。
 
知多半島
伊勢湾をはさんで三重県の対岸に位置する愛知県の半島。



読み手:加藤 陽子さん