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多気町 ごかつらいけのひわ
五桂池の悲話
今では憩いの場となっている五桂池。
これは今から三百年前に紀州のお殿様の命により作られたものでした。
この池には、ふるさとを失った村人のお話が残されています。

お話を聞く

 来る日も来る日もお天道(てんとう)さまは照り輝(かがや)き、村人たちは嘆(なげ)いとったそうや。
「雨が降(ふ)ってほしいなあ」
「雨乞(あまご)いでもせんと、降らんのやろか」
と青い空を見上げては、村人たちはため息をつくばかり。田んぼはひび割(わ)れ、このままでは今年も米が獲(と)れんようになるにちがいないと、途方にくれておったんやて。
 一方、田丸城(たまるじょう)の代官(だいかん)さまの方でも、
「これでは、年貢(ねんぐ)のとりたてもままならん。たいへんなことじゃ」
とお城(しろ)の中で相談を始めたが、良い考えは浮かばへんだらしい。
 そんなある日、田丸城を支配している紀州(きしゅう)の殿様(とのさま)の使いの者から、もっと年貢米(ねんぐまい)を増やすようにと、きびしい命令が届(とど)いたんや。
用語説明
田丸城
336年、現・玉城町に、北畠親房(きたばたけちかふさ)・顕信(あきのぶ)父子が南朝義軍の拠点として砦を築いたのが最初と言われている。現在は花見の名所としても有名になっている。



「実は、ごらんのような日照(ひで)り続きで、米はたいへん不作でございます。まったく手のほどこしようもございません」
と使いの者に返事を申し上げると、
「ならば池を造れ!」
という命令が下され、田丸城の代官さまは、ますます困(こま)ってしもた。
紀州の殿様からは
「山と山の間にはさまれた盆地(ぼんち)を探(さが)し、池を造ってみよ」
と再び命令があり、代官さまは、
「それなら、上五桂(かみごかつら)あたりがちょうど良い場所です」
と答えたものの、そこには二十五軒(けん)の家があったんや。
 やがていく日かたったある日、突然(とつぜん)上五桂の在所(ざいしょ)に、ここに池を作るという代官さまの立て札が立てられた。
「えらいことや。わしらの村が池になる」
「こんなみじめなことはない。わしらはいつもお上(かみ)の言いなりばかりや」
村中おおさわぎとなり、村人は田丸の代官さまに押(お)し寄せるばかりになった。
 
代官
幕府の直轄地(ちょっかつち)を支配し、租税(そぜい)の徴収を司った役人。



   
 しかし、代官さまや紀州の殿様にはとうてい勝ち目はあらへん。
「池が出来て水に困らんようになるんやったら、わしらが我慢(がまん)しようやないか」
と村人たちは、自分たちの苦しい気持ちをおさえて協力することに決めたんや。
 住み慣れた土地から見知らぬ土地へはなればなれに移ってゆくことは、とてもつらいことやったが、寛文十二年、工事が始まり、六年の歳月(さいげつ)を費やして、伊勢の国では一番大きな池が出来上がった。
 すると、上五桂の二十五軒の人々が泣いているかのように、大粒(おおつぶ)の雨が降り続いたんやて。
 おかげで池はみるみるうちに水がたまり、それからというもの、近辺の村人たちは水に困ることなく、おいしいお米をたくさん作れるようになったんやて。
 
寛文(かんぶん)十二年
1672年(江戸時代)

五桂池



読み手:笹木 和子さん